11.小さな焦り
ダニエルとのあの会話から、数日が過ぎた。
アンナは相変わらず屋敷の中を行き来し、これまでと同じように仕事をこなしている。
けれど、頭の片隅にはずっと、あの問いが残っていた。
――どう生きたいのか。
――どう在りたいのか。
生家へ戻るという選択肢は、もうない。
サリバン家は完全に没落したらしい。
たとえそうでなくとも、あの家へ戻りたいとは少しも思わなかった。
かといって、この屋敷に残ることがアンナ自身の望みなのかと聞かれると、すぐには答えられなかった。
そんなアンナの迷いとは関係なく、屋敷の日常は滞りなく流れていく。
「アンナ様、この件ですが……」
使用人の一人が、アンナに声をかけてきた。
初めの頃はダニエルへ最終的な判断を仰いでいたが、屋敷に関する重要な判断を下すことも、いつの間にかアンナの役割になっていた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ、それで大丈夫だと思います」
アンナが答えると、彼女は深く頷いてその場を離れていく。
ダニエルが実務を任せている孤児院や職業訓練校の責任者との打ち合わせでも、アンナが判断を求められることが増えていた。
それに、これまでダニエルの妻となった女性たちは、あくまで仮初めの妻であり、事業へ深く関わることはなかったらしい。
けれど、ダニエルがアンナへ寄せる信頼を見て、皆も彼女がこれまでの妻たちとは違うのだと理解している。
すでに自分が、この屋敷の女主人として扱われていることを、アンナも認めざるを得なかった。
ただ――これは、アンナが望んで手に入れた立場ではなかった。
ここに居場所があることも、役に立っていることも、必要とされていることも分かっているが、自分の未来はこれで正しいかと聞かれると…………答えが出ない。
考えれば考えるほど壁に当たり、同じところをぐるぐる巡ってしまう。
ため息を吐きながら、その日の昼下がり、アンナは書類を届けるついでに様子を見るため、屋敷から一番近い孤児院へと向かうことにする。
丘から町へ向かう緩やかな傾斜の坂道を徒歩で下っていると、聞き慣れた声がアンナを呼び止めた。
「アンナ、一緒に行こう!」
振り返ると、ルカリオがこちらへ駆けてくるところだった。
「あら、あなたも孤児院に?」
走ってきたにもかかわらず息一つ乱していないルカリオは、アンナの隣へ並ぶと、こくりと頷いた。
「今日はレイヤとアレックスに剣教えるって約束してたから」
孤児院に着くと、アンナまず責任者に書類を手渡し、最近の様子を一通り聞いた。
物資の不足はないか、寄付額が足りているか、子どもたちの体調はどうか、新しく来た子は馴染めているかなど。
他にも口頭でいくつか確認を済ませ、中を一通り見て回る。
そして特に大きな問題はないと確認し、そろそろ屋敷へ戻ろうかと思った、その時だった。
中庭の一角から、乾いた音が聞こえてきた。
自然とそちらへ足を向けて見に行くと、木と木が打ち合わさる軽やかな音と、楽しそうな複数人の声が耳に入る。
「えいっ、やぁっ!」
「はっ、はぁっ!」
まだ幼い子どもたちが、掛け声を上げながら懸命に木剣を振っている。
その前には、ルカリオが立っていた。
彼は穏やかな目で子どもたちを見守りながら、優しく声をかける。
「そう、そのままでいいよ。きれいにできてる。踏み込みは急がなくていいから」
子どもたちは失敗しても、悔しそうに眉を寄せて、すぐにまた構え直す。
うまくいけば、満面の笑みを浮かべて胸を張る。
そういえば以前、ルカリオが「子どもたちに剣を教えるのは楽しい」と話していたことを、アンナは思い出した。
教えるルカリオも、教わる子どもたちも、本当に楽しそうだった。
子どもたちへ向けるルカリオの横顔は、以前よりも少し大人びて、頼もしく見える。
その姿を眩しく感じると同時に、先日覚えた小さな焦りが、再びアンナの胸をかすめた。
やがて、今日の稽古が終わったらしく、ルカリオが木剣を下ろす。
子どもたちは名残惜しそうにしながらも、元気よく礼をして走り去っていった。
片付けを終えたルカリオは辺りを見回していたが、アンナの姿に気づくと目を丸くする。
「……アンナ? びっくりした、先に帰ったと思ってた」
「そのつもりだったんだけど。なんとなくルカの様子を見ていたら、つい最後まで目が離せなくなって」
アンナがそう答えると、ルカリオは照れたように頭をかき、少しだけ視線を逸らした。
「あっそ。じゃあ……俺の方ももう終わったし、一緒に帰ろう」
「そうね」
それから二人は並んで孤児院をあとにし、屋敷へ続く坂道を歩き始めた。
気づけばもう空の向こうはうっすらと赤みを帯びていた。
夕方の空気は、昼間よりも少しだけ涼しい。
しばらくは、二人で他愛もない話をしていた。
「一昨日の夕食はえらく豪華だったよな」
「アンソニー様がいらしてんだもの。下手な料理は出せないから」
「つまり毎日あの人がうちに滞在してたら、ごちそう三昧ってことか……」
「でもそうなると、ルカは毎晩遅くまでチェスの相手をしないといけなくなるわね」
「うわっ、それはちょっと嫌かも。アンソニー様ってダニエル様以上に負けず嫌いでさ。俺に一勝でも多く勝つまで粘ろうとするんだよね」
そう言うと、ルカリオはげんなりとした顔でため息を吐く。
その場面はアンナも何度か見たことがある。
文句を言いながらも、ルカリオはいつも楽しそうにアンソニーとチェスをしていた。
そして、そんな二人の勝負を、ダニエルは楽しげに笑いながら眺めているのだ。
他にも、剣を教えている子どもたちの話や、アンナが担っている業務についての話をしているうちに、胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少し緩んでいくのを感じる。
けれどしばらく歩いたところで、ルカリオがふと歩調を落とした。
「……そういやアンナ、最近さ、なんか元気なくない?」
何の脈絡もなく投げかけられた言葉に、アンナの足が止まりかけた。
「そう、かしら」
確かに、ここ数日は答えの出ない問いを抱え、鬱々と悩み続けている。
それでも表には出さず、普段どおりに振る舞っているつもりだった。
アンナが曖昧に答えると、ルカリオは間髪をいれずに言った。
「いや、そうだよ。いつもと同じには見えるけどさ、やっぱりちょっとおかしいっていうか、何か悩んでいそうっていうか」
「……あなたには、分かっちゃうのね」
「当たり前だろう? ――俺はずっと、アンナを見てきたんだから」
ルカリオの瞳が、まっすぐにアンナを射抜く。
アンナは一瞬、言葉を失った。
体調を崩した時も、悲しみに沈んでいた時も。
アンナの異変に真っ先に気づき、声をかけてくれたのは、いつもルカリオだった。
足元の砂利を踏む音だけがやけに大きく響き、夕方の風が、頬をなぞって通り過ぎた。
何か言おうとして、結局何も言えずに口を閉じる。
そんな沈黙が、数歩分続いた。
けれどルカリオは無理に聞き出そうとはせず、アンナが話し始めるのを黙って待ってくれていた。
その変わらない優しさに背中を押され、アンナは視線を落としたまま、今にも消えてしまいそうなほどの小さな声で呟いた。
「……ねえ、ルカ。少し話を聞いてもらってもいいかしら」
アンナが足を止め、数歩先を歩いていたルカリオへ声をかける。
アンナに小さな声だったにもかかわらず、ちゃんと聞こえていたらしいルカリオはすぐに引き返してきた。
そして、何も尋ねないまま、近くにあった大きな石へ腰を下ろすと、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「いいよ。話、聞かせて?」
アンナは頷くと、ルカリオの隣に腰を下ろして息を整え、ゆっくりと口を開いた。




