12.夢中になれるもの
「実は、ダニエル様に言われたの。私がこの先どう生きたいのか、どう在りたいのかを考えてほしいって」
「この先?」
アンナはルカリオの言葉に、唇をわずかに噛む。
「ええ。メリッサの魂を持つ私じゃなくて、アンナとしての私の先のこと。……もし私が望むならって、今ダニエル様のしている事業の引き継ぎの話も出ていて」
「うん。それで?」
「この仕事は嫌いじゃないわ。誰かの役にも立てるし。だけど、事業を継承するっていうのは重い責任が伴うし、望まれればもちろんその立場を受け入れるけれど、私自身がそれを本当にやりたいのかって聞かれると……その、分からなくて」
情けないことを言っている自覚はある。
自分のことは自分が一番よく分かっているべきなのに、それすら分からない。
けれどルカリオは、アンナを責めることも、呆れることもなく、黙って彼女の話へ耳を傾けてくれている。
そんなルカリオの雰囲気に安心したのか、アンナは胸の内に溜めていたことを、思いつくままに言葉にしていった。
同じ話を何度も繰り返し、堂々巡りになっていると分かっていても、止められなかった。
やがてすべてを吐き出し終え、アンナがようやく口を閉じる。
すると、少しの沈黙のあと、ルカリオがぽつりと話し始めた。
「俺さ。実は騎士になりたかったわけじゃないんだ」
思いがけない告白に、アンナは目を瞬かせた。
「でも、昔から剣の稽古には一生懸命だったじゃない。それに騎士になりたいってあんなにはっきり言っていたのに」
アンナがそう言うと、ルカは後頭部を搔きながら苦笑した。
「違うんだよ。俺、本当はあの家から早く出たかっただけなんだ。剣を選んだのは、たまたまそっちが向いてたから腕を磨いていただけで、なんというか、逃げ出す手段として騎士になりたかったってところかな」
長い付き合いだったのに、アンナはそのことにまったく気づけなかった。
驚くアンナを前に、ルカリオは淡々とした口調で続ける。
「でも、ここに来て、孤児院で子どもたちに剣を教えた時に気づいたんだ」
ここでルカの声が一段明るくなる。
「教えてる子たちがうまくできた時の笑顔を見た時に、俺ってなんだかんだ言いつつ剣を振るうのが好きだったんだって。けどそれ以上に、誰かに剣を教えるのが楽しくてさ。だから今は、子どもたちに剣を教える場所を作りたいって思ってる。師範みたいな立場でさ」
そう言って、少し照れたように笑った。
「それがあなたの今の夢なの?」
「そうだよ」
迷いのない瞳で言い切るルカリオが、アンナにはとても眩しく見えた。
自分より年下の彼が、すでに自分の進む道を見つけている。
それなのに自分は……。
これまでに何度も感じてきた自己嫌悪でつい俯きかけたアンナに、ルカリオはこてんと首を傾げた。
「……なあ、アンナ。ちょっといい? あのさ、俺から見てると、仕事してる時のアンナって、めちゃくちゃ楽しそうなんだけど」
「え……?」
アンナの口から、思わず間の抜けた声がこぼれた。
「楽しそう、って……?」
「うん。気づいてないの?」
ルカは不思議そうに眉を寄せる。
「書類見てる時とか、孤児院とか学校の話してる時も、顔全然違うよ。それこそ、ガルナシア家で書類とにらめっこさせられてた時とは大違い」
ルカの指摘に、わずかに心がざわついた。
確かに、伯爵家での書類仕事や自室での勉強の時は、ただこなしているだけで、楽しいと思ったことも充実感もなかった。
けれど、言われてみれば今はその時とは明らかに違う。
「嫌いじゃないとは、思ってたけど……」
「それだけ?」
ルカリオは、信じられないと言いたげに片方の眉を上げた。
「嫌いじゃないってレベルなら、あんなことにはならないだろう。この間だって、俺とアンソニー様がチェス盤挟んでにらめっこしてる横で、ダニエル様と新しく建設する孤児院について熱く語ってたじゃん。白熱しすぎて軽くダニエル様と言い合いになってたけど」
「っ、た、確かにそうだったわね」
自分が若輩者であることは重々承知していたが、どうしても納得できない部分があり、ダニエルと話し合ううちに、つい声が大きくなってしまったのだ。
あの時のことを思い出し、アンナの頬が恥ずかしさで熱くなる。
そんなアンナに、ルカリオは確信を込めて告げた。
「俺はあの時、やっとアンナは、誰かに言われたことじゃない、自分のやりたいこと見つけたんだなって思ってたんだよね。アンナが夢中になれる好きなことをさ」
――夢中。
その単語が、頭の中で反響する。
「だからアンナ、自分では気づいてないだけで、答えはもう出てる気がするよ」
これまでアンナは、自分がこの仕事を続けているのは、周囲から求められ、誰かの役に立てるからだと思っていた。
だから事業を引き継ぐかどうかについても、自分にその責任を果たせるかということばかり考えていた。
けれど、そうではなかった。
アンナは与えられた仕事を義務としてこなしているのではなく、自分で考え、よりよい方法を探し、その結果として誰かの暮らしがよくなることに喜びを感じていた。
だから、何をしたいのか分からなかったのではなく、夢中になれるものは、もう見つけていたのだ。
ただ、好きだからやりたいという自分の気持ちを、人生を決める答えにしていいと、無意識に思えなかっただけだ。
胸の中で複雑に絡まっていた糸が、一本ずつほどけていくようだった。
同時に、胸の中でメリッサが囁いた気がした。
――――前に言ったでしょう? 人生は一度きりだって。だったら、好きなように楽しまないと。
そう、アンナの中にメリッサの記憶が蘇った時にも、彼女は確かに言っていた。
アンナの人生はもう、自由なのだ。
それならば難しいことは考えずに、心の赴くままにしたいことをすればいい。
もちろん、そこには責任が伴うだけでなく、やりきるためには常に努力も必要になる。
実際、今のルカリオはその点で悩んでいるそうだ。
「本当にやりたいことが見つかったのはいいんだけどさ。ただ、今の俺じゃ足りないんだよ。だって俺は基礎しか教えられないし、もっと強くなりたいって言われた時に、答えられない」
ルカリオには剣の才能があるが、実際に騎士として働いた経験があるわけではない。
だからこそ、彼は自分に足りないものを理解したうえで、夢へ進むための道を考えていた。
「実はニコラスさんに頼んで、個別に訓練も受けてる。けどいろんな経験も必要だから、一度騎士にはなってみろって言われてさ。今度、この地方を管轄する騎士団の、見習い採用試験を受ける予定なんだ。そこで十分に経験を積んだら、正式に道場みたいなの開こうかなって」
今度は、家から逃げるためではない。
自分の未来を見据え、夢を叶えるために騎士を目指すルカリオは、アンナより年下でありながら、ずっと大人びて見えた。
ならばアンナも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
「……ありがとう、ルカ。話を聞いてくれて。おかげで、自分の気持ちがまとまったわ。それに――これからどう進むべきかも」
アンナが立ち上がりながらそう告げると、ルカリオはほっとしたように表情を緩めた。
「アンナの役に立てたなら、よかった。俺はこれから先、いつでもアンナのそばにいる。また何かあったらいつでも言ってよ」
同じように立ち上がったルカリオを見つめながら、アンナはふと思った。
自分はいつも、彼に助けられてばかりだ。
「本当にありがとう。私がこうして立ち上がれるのは、きっとルカのおかげよ。今度なにかお礼するから、希望があれば言ってね」
「いいよ別に礼なんて」
「買ってほしいものとか、してほしいこととか、あなたの要望は可能な限り叶えてあげるわよ?」
そう告げた瞬間、ルカリオはわずかに息を呑み、何かを言いかけるように唇を開いた。
けれど、すぐに思い直したように、ぶんぶんと首を横へ振る。
「……別にない」
「さっきの反応は、どう見ても何かありそうだったけど?」
その指摘に、ルカリオの顔がかすかに赤くなる。
「何? 私にできることなら、本当になんでもしてあげるから」
「いい。別にいい」
「私とルカの仲じゃない。遠慮なんてしなくても」
「本当にいいって! それに、俺は……」
何を遠慮しているのか分からず、アンナがさらに尋ねようとするも、ルカリオはそれまでの照れを消し、真剣な顔になった。
「ない、ことはないけど……俺がしてほしいことは、お礼って形でもらうのは違うから」
「そうなのね」
ルカリオが何を指しているのか分からないが、そこまで言われてしまえば、アンナにはこれ以上何も言うことはできなかった。
それでも、自分も彼の力になりたいという気持ちは本物だった。
「ねえルカ。あなたも何か悩むことがあったらいつでも相談してね」
この言葉に、ルカリオは軽く肩をすくめた。
「そう言ってもらえるだけで十分だから」
そしてルカリオと話した翌朝、アンナはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
胸の奥に残っていた重さは完全には消えてはいないが、昨日までのように息が詰まる感じはもうなくなっていた。
朝の光が差し込む廊下を抜け、アンナはダニエルのいる中庭へと足を向ける。
朝食前、庭の花を見ながら散歩するのが彼の日課だと知っていたからだ。
整備された石畳の道を歩いていくと、風に揺れる白い花をじっと見つめるダニエルの姿があった。
「おはようございます、ダニエル様」
「アンナか、おはよう。今日は早いな」
いつもの穏やかな声と表情がアンナを出迎える。
けれどダニエルは、彼女の顔を一目見ただけで、ここへ来た理由を察したようだった。
「考えは、まとまったようだな」
「はい」
アンナは一度息を整えると、迷いのない表情で言った。
「お願いします。――私に、あなたの事業を引き継がせてください」
ダニエルはしばらく何も言わず、アンナの目を見つめていたが、にやりとした笑みを浮かべて言った。
「分かった。だが、先に言っておく。私は決して甘くないぞ」
「望むところです。どうか遠慮なく、厳しくご指導ください」
「ほう。言ったな?」
ダニエルはここで嬉しそうに頬を緩めると、アンナへ右手を差し出した。
「では今日から、君を正式な後継者として扱おう。よろしく頼む、アンナ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
アンナは差し出された手を、期待に応えたいという想いを込めて、両手でしっかりと握り返した。
――その日を境に、ダニエルのアンナに対する接し方が、仕事のうえで明らかに変わった。
ダニエルが声を荒らげることはない。
けれど決して甘くもなく、アンナは何度も厳しい指摘を受けた。
その厳しさが、彼女を突き放すためのものではないことは分かっている。
すべては、ダニエルがいなくなったあと、アンナが一人で判断を下せるようにするためだ。
だからアンナは、必死に食らいついた。
そしてアンナは、これまで自分が任されていると思っていた仕事も、実際にはダニエルがあらかじめ下地を整え、大きな失敗にはつながらないよう支えてくれていたのだということも思い知らされた。
アンナは悔しさを飲み込みながら、何度も帳簿や資料を見直し、自分の判断の根拠を言葉で説明できるまで考え抜いた。
その積み重ねによって、アンナは以前よりも、自分の判断に迷わなくなっていった。
「……前よりも格段によくなっているな」
初めてそう褒められた時、アンナの胸は、何ものにも代えがたい喜びで満たされた。
一方、ルカリオの生活も変わっていた。
彼はこの地方を管轄する騎士団へ見習いとして入団し、今は見習いとして働いている。
帰りが遅くなる日も多く、生活のリズムは以前より合わなくなったが、それでも必ずこの屋敷に帰ってきた。
どれほど忙しい日でも、たとえすれ違いざまのわずかな時間しかなくても、二人は必ず言葉を交わした。
「今日はどうだったの?」
「しごかれすぎて死にそう……。でもアンナの顔見たら元気出た。そっちは?」
「私も同じよ。ダニエル様はかなり厳しいけれど、でも少しずつ身になっていくのが分かって、結構楽しいわ」
「この間は悔しいって、半泣きになってたくせに」
「それはもう言わないで」
そんな話をして笑い合い、最後には「また明日」と約束するように、二人で軽く拳を合わせて別れる。
それだけのやり取りが、不思議と心を落ち着かせてくれた。
お互いに、それぞれの場所で夢に向かって進んでいる――その事実が、アンナの何よりの支えになった。




