13.アンナだけの感情
それから、数年が経った。
ダニエルが築き上げてきた事業は、名実ともにアンナの手へ引き継がれていた。
孤児院、職業訓練校、他にもこの数年で始めた関連する支援事業のすべて――対外的な名義も、最終的な判断権も、今はアンナが担っている。
ダニエルはというと、すでに第一線からは退き、相談役という立場に収まっていた。
アンナから求めれば助言をくれるが、余計な口出しは一切しない。
それは、アンナのことを認めてくれているという証でもあった。
アンナは、引き継いだ事業をむやみに拡大しようとはしなかった。
勢いがあるうちに規模を広げるべきだという意見も現場から届いており、新たな計画もいくつか温めている。
それでも今、何より優先しているのは、すでにある事業を安定させることだった。
かつてなら花嫁として救い出していたような者たちも、今では男女問わず、屋敷や各施設で働く者として受け入れている。
掃除、洗濯、書類補助、孤児院の手伝いなど、できることは人それぞれだ。
すぐに働くことが難しい者には、読み書きや仕事に必要な技術を学ぶ機会も用意した。
安心して暮らせる場所で、自分にできることを見つけ、自らの力で新しい人生を選び取れるよう手を貸す。
それが、アンナの選んだ新しい救い方だった。
事業を安定して続けるため、アンナは王都へ出向く機会も増えていた。
アンソニーやダニエルと親交のある貴族から紹介を受け、慈善活動に関心を持つ貴族や、必要な認可を扱う官吏たちとの会合へ積極的に顔を出している。
支援金を集めるだけでなく、事業を不当な干渉から守り、困っている者の情報を得るためにも、彼らとのつながりは必要だった。
子爵令嬢だったアンナも、平民であるダニエルと婚姻したことで、現在の身分は平民となっている。
それでも今は、慈善事業を束ねる代表者として正式な招待を受けているため、貴族たちの集まりへ出席しても問題はなかった。
かつてアンナに着せられた悪女の汚名も、リリアン自身の失言によって濡れ衣だったことが広く知られているので、かつてのように冷たい視線を向けられることもなくなっていた。
さらにアンナは、これまで救い出された女性たちの事情には触れないまま、ダニエルが長年にわたり孤児院や職業訓練校を設立し、その運営を陰から支えてきた事実を、少しずつ公にしていった。
初めは、ダニエルもそれを望まなかった。
「今さら評判が変わったところで、私には何の意味もない」
そう、いつものように笑っていた。
けれど、アンナは引き下がらなかった。
「ダニエル様が悪人だと思われ続けるのは、私が嫌なのです。ルカも、この屋敷で暮らす皆も、同じ気持ちです。それに……私の中のメリッサも、随分腹を立てています」
その瞬間、胸の奥から、メリッサの声がはっきりと聞こえた。
――――ダンは何も悪くないのに。本人が気にしないからといって、私の愛した人が悪人扱いされたままなんて、絶対に許せないわ。
彼女の強い怒りと、それ以上に深い愛情が、痛いほどアンナの胸へ流れ込んでくる。
けれど、それはメリッサだけの感情ではない。
ダニエルがどれほど優しい人なのかを知るアンナ自身も、彼が根も葉もない噂によって貶められ続けることが、どうしても我慢ならなかった。
「メリッサも申しております。自分の愛した人が悪人扱いされたままなど、絶対に許せない、と」
その訴えに、ダニエルは困ったように眉を下げた。
「メリッサまで持ち出されては、私に勝ち目はないな」
そうしてようやく、救い出された者たちの過去を決して明かさないことを条件に、自身の功績を公表することを認めたのだ。
結果、ダニエルにまつわる悪評も完全には消えないまでも、以前ほど囁かれることはなくなっていた。
――それから、ルカリオの立場も大きく変わっていた。
彼はすでに騎士見習いではなく、若手の中でも将来を期待される騎士の一人となっている。
責任のある任務を任されることも増え、忙しさは以前とは比べものにならない。
それでも、孤児院へ足を運ぶのをやめることはなかった。
不定期ではあるけれど、剣を教える子どもたちの数は増え、彼を慕う声も多い。
「先生、次はいつ来るの?」
「もっと強くなりたいんだ!」
そんな声を受け、照れくさそうに笑うルカリオの姿を、アンナは何度も目にしてきた。
「次の休みには来るよ。それまで、今日教えたことを忘れるなよ」
「はーい!」
子どもたちが元気よく返事をする。
その中で、一人の幼い少女が、ルカリオとアンナの顔を交互に見比べた。
「ねえ、アンナ様は先生のお嫁さんなの?」
「えっ?」
あまりにも唐突な質問に、アンナは目を丸くした。
「違うわ。どうしてそう思ったの?」
「だって先生、アンナ様が来ると、ちょっとだけ顔赤くなるから」
「そうそう。アンナ様を見つけた途端、嬉しそうな顔になった!」
口々にそう訴える子どもたちに、ルカリオの顔が見る見る赤くなっていく。
「お、お前たち! 余計なことを言ってないで、使った木剣を片づけてこい!」
「先生、顔が真っ赤!」
「うるさい!」
笑い声を上げながら逃げていく子どもたちを、ルカリオは赤い顔のまま追い払った。
その様子がおかしくて、アンナもつい笑ってしまう。
「ずいぶん慕われているのね、先生」
「アンナまでからかうなよ……」
ルカリオは拗ねたように顔を背けたが、耳まで赤く染まったままだった。
子どもたちの言った「ルカリオのお嫁さん」という言葉が、なぜかアンナの耳に残った。
あらためてアンナは、隣に立つルカリオへ目を向ける。
出会った頃にはまだ幼さの残る少年だった彼も、今ではアンナより頭一つ分ほど背が高い。
騎士として鍛えられた肩や腕は逞しくなり、少年らしい丸みの残っていた顔立ちも、随分と精悍なものへ変わっていた。
昔から、大人になればきっと目を引くような美青年になるだろうと思っていたし、実際、その予想は少しも外れていない。
騎士団の行事へ姿を見せた令嬢から声をかけられたとか、街の女の子から贈り物を渡されたとか、ルカリオが女性に人気だという話はアンナの耳にも届いている。
けれど、本人が誰かと特別な関係になったという話は、一度も聞いたことがなかった。
そのことを考えると、アンナはなぜか、ほんの少しだけほっとした。
本当に、ほんの少しだけ……けれど、どうして自分が安堵したのかは分からない。
その疑問が胸をよぎった瞬間、奥深くからメリッサの感情が浮かび上がり、どこか楽しげな声となって響いた。
――――その安堵は、私のものではないわよ、アンナ。
「え……?」
思わず声を漏らしたアンナに、ルカリオが不思議そうな顔を向ける。
「どうした?」
「い、いいえ。何でもないわ」
問い返したかったが、メリッサの気配はすでに胸の奥へ沈み、答えてくれる様子はなかった。
「そろそろ戻ろう。俺、このあとニコラスさんとの稽古があるんだ」
「ええ、そうね」
歩き出したルカリオの背を、アンナは慌てて追いかける。
いつもと変わらない帰り道のはずなのに、隣を歩くルカリオが、今日は少しだけ違って見えた。




