8.自ら招いた結末
「まったく……来るなら事前に連絡を寄越せと、あれほど言っておるのに。こちらには、もてなすための準備があるのだぞ」
「あなたと私の仲ではありませんか。気にする必要はありませんよ。僕はすでに、あなたと同じく引退した身なのですから」
「周りの人間が気を遣うと言っているのだ」
ダニエルとアンナの向かいに座り、夕食に出された魚のムニエルを口へ運んでいるのは、前国王のアンソニーだった。
ダニエルより二歳年下で、今は馬車で一日ほど離れた街に暮らしている。
妻には先立たれ、数人の使用人だけを置いた小さな屋敷で、比較的質素な生活を送っているというが、本人はその暮らしがとても気に入っているらしい。
アンソニーは昔から、極めて優秀な人間だったとアンナは聞いたことがある。
けれどもともと王位を継ぐ予定はなく、本人も、できることなら王族の籍を離れ、片田舎でのんびりと暮らしたいと考えていたという。
しかし、兄である当時の国王が一人の女性に入れ込み、国庫を傾けるほどの浪費を重ねた。
その兄が退位させられた結果、望んでもいなかった王位が、アンソニーへ回ってきたのだ。
その原因となった女性こそ、メリッサ・アナベルだった。
もっとも、実際には国王が一方的にメリッサへ熱を上げ、勝手に貢ぎ続けただけであることは、メリッサの記憶を持つアンナもよく知っていた。
現在は息子へ王位を譲り、ようやく肩の荷を下ろすことができたようで、昔よりも生き生きとしていると噂だ。
そんなアンソニーは、今回のように、たびたび予告もなくダニエルの屋敷を訪れる。
ダニエルが不在の時には、アンナが一人で相手をすることもあるし、アンナが来る前は、その時々に屋敷にいた元妻たちが対応していたという。
前国王という肩書から初めは身構えていたアンナだったが、実際のアンソニーは非常に気さくな人物だった。
この日も食事が終わったあと、「忘れるところでした」と言いながら、可愛らしく包まれた袋をアンナへ差し出した。
「アンナ、これはお土産です」
「……もしかして、クッキーですか?」
「そうですよ。ちなみに、僕の手作りです。最近、お菓子教室へ通い始めましてね。これがなかなか楽しくて、すっかり夢中になってしまいました」
現役時代のアンソニーは、丁寧な口調を崩さないまま、相手の余計な意見を容赦なく切り捨てる人物として畏れられていたという。
しかし今の姿からは、その面影をほとんど感じられない。
エプロンと三角巾を身につけ、ほかの生徒たちに交じって菓子を焼くアンソニーの姿を想像し、アンナは思わず笑ってしまった。
対してダニエルは、食卓を指先でとん、と二度叩くと、わざとらしい笑みを浮かべた。
「友よ。私の妻への土産はありがたいが、家主である私には、その土産とやらはないのか」
「ありませんね。強いて言うなら、旧知の友である僕が、こうして元気な姿を見せに来たことが土産でしょう」
「この爺さんは、いけしゃあしゃあと……」
「僕も爺さんですが、あなたも十分に爺さんですよ。一度、鏡をよくご覧なさい」
「相変わらず口の減らない男だ」
そう言って、二人は顔を見合わせて笑った。
身分を越えて、長年親しく付き合ってきたことが伝わってくる。
気兼ねなく憎まれ口を叩き合う二人を眺めているうちに、アンナの気持ちまで穏やかになっていった。
この感情がアンナ自身のものなのか、ダニエルの幸せを喜ぶメリッサのものなのかは、もう判別できなかった。
食後には、二人は酒を酌み交わしながら、夜遅くまでチェスをすることが多い。
けれど、この日は遊戯室へ移動する前に、アンソニーが思い出したように口を開いた。
「そういえばダニエル。最近は女性だけでは飽き足らず、若い男にも手を伸ばすようになったそうですね。僕の住む街にまで、その噂が届いていますよ」
面白がるような視線をダニエルへ向けたあと、アンソニーはアンナを見た。
「せっかく半世紀の時を越え、最愛の人と再会できたというのに。随分と節操がないのですね、あなたは」
アンソニーは、アンナがメリッサの生まれ変わりであることを知る、数少ない人物の一人だった。
アンナの許可を得たうえで、ダニエルが事情を話したのだ。
ほかに知っているのは、ルカリオだけである。
話を聞いた時、アンソニーも当然大いに驚いたらしい。
だが若い頃からダニエルと親交のあったアンソニーは、メリッサが本当はどのような女性だったのかも、彼女とダニエルが密かに想い合っていたことも知っていた。
だからこそ、驚きながらもアンナの話を受け入れてくれたのだ。
兄が退位する原因になったメリッサを恨んでいる様子もない。
悪いのは、妻がいながらメリッサへ一方的に執着し、国庫の金を使い込んだ兄であると、そう考えているのだという。
アンソニーのからかいを受け、ダニエルは豪快に笑った。
「噂は間違ってはおらんよ。確かに私は二週間前、若い男を一人、この屋敷へ引き入れた。チェスの相手としてな」
途端にアンソニーの目が輝いた。
「なるほど。それは興味深いですね。……あなたがかどわかしたのは、ガルナシア伯爵家の次男、ルカリオだと聞きましたが?」
「そうだとも。まだ若いが、なかなか骨のある男でな」
ダニエルは、ルカリオがアンナを助けるために単身屋敷へ忍び込んだことや、現在は客人として滞在していることを説明した。
なお、ルカリオは日暮れまでニコラスたちの訓練に参加し、そのまま護衛たちと食事を取ることになっていたため、この席にはいなかった。
話を聞き終えたアンソニーは、ますます興味をそそられた様子で白髪交じりの短い顎をゆっくりと撫でた。
「アンナを助けるため、単身この屋敷へ乗り込むとはねぇ。その気概に加え、チェスの相手にもなるのでしたら、最近よからぬ噂の絶えないガルナシア家へ帰す理由はありませんね。ええ、ありませんとも」
良からぬ噂の絶えないガルナシア家――その言葉が気になり、アンナは思わずアンソニーに尋ねた。
「あの、アンソニー様。ガルナシア家の噂とは、一体……。トーマス様からの手紙で、リリアンとガルナシア夫人が衝突していることは知っていますが」
「おや。では、あなたの悪評が嘘だったと社交界中に知れ渡ったことは? そのせいでサリバン家まで大変なことになっているのですが」
それは初めて聞く話だった。
アンナがダニエルへ視線を向けると、彼は気まずそうな顔をした。
「アンナには何も話しておらん。過去の家族を気にしている様子がなかったから、わざわざ耳に入れる必要もないと思っていた。隠すつもりはなかったが、私の判断だけで伝えなかったことは詫びよう」
「謝らないでください。私自身、知りたいと思っていませんでしたから」
「そうか。だが、知りたいのであれば話そう」
「……正直に言えば、今でもそれほど興味はありません」
アンナは今の暮らしに満たされていた。
自分をダニエルのもとへ差し出した家族へ復讐したいとも、目にものを見せたいとも思っていない。
元妻たちと同じく、アンナも生家へ戻るつもりはなかった。
もう、自分の人生とは関係のない人々なのだ。
それでも、ガルナシア家の現状は、ルカリオのこれからにも関わってくるかもしれない。
ならば、何が起きているのかだけは知っておいた方がいいだろう。
「では、簡単にだけ教えていただけますか?」
ダニエルは頷き、両家の現状を話し始めた。
――アンナをふしだらな悪女に仕立て上げ、トーマスの新たな婚約者となったリリアン。
しかし、彼女の振る舞いが次期伯爵夫人にふさわしくないことは、姉であるアンナが誰よりもよく知っていた。
ガルナシア家へ通い、伯爵夫人になるための教育を受け始めたリリアンは、すぐにトーマスの母親から不評を買った。
まともに挨拶もできず、年長者への態度もぞんざいで、注意されれば涙を浮かべて自分は悪くないの一点張り。
「私は可愛いのだから、何をしても許されるはずよ!」
二言目には、いつもそう言っていたらしい。
よく、あの厳しいガルナシア夫人が婚約を許したものだと思っていたアンナだが、最初の顔合わせでは、リリアンも大人しく猫をかぶっていたようだ。
けれど本性が露呈してからは、夫人とリリアンの言い争いが日常となった。
可愛らしい外見に反し、リリアンはかなり気が強い。
夫人相手にも一歩も引かず、ついには髪を掴み合うほどの喧嘩にまで発展し、もはや淑女教育どころではなくなっているという。
そんなリリアンの姿を目にしたトーマスは、彼女へ急速に幻滅した。
事あるごとに「アンナの方がよかった」と言うようになり、こっそりアンナへ手紙を送ったことまでリリアンに知られてしまった。
それを知ったリリアンとトーマスの喧嘩も、ガルナシア夫人との争いに負けず劣らず凄まじいものだったという。
今では三人とも顔を合わせるたびに罵り合い、ガルナシア家の当主は収拾を諦め、サリバン家の両親や兄も、リリアンをなだめることすらできずにいるらしい。
さらに意外なことに、アンナの悪評が偽りだったことまで明らかになっていたのだ。
ある茶会の席でガルナシア夫人と言い争いになったリリアンが、トーマスと結ばれるために二人で噂を捏造したのだと、うっかり口を滑らせたのだという。
その場には運悪く、複数の貴族夫人が居合わせていた。
当然、話は瞬く間に社交界へ広まり、サリバン家とガルナシア家の評判は地に落ちた。
ガルナシア家としては、騒動の原因となったリリアンとの婚約を解消したい。
けれど今さら婚約を解消しても、トーマスが噂の捏造へ加担した事実は消えず、新たに嫁いでくれる令嬢が現れる可能性も低かった。
一方、サリバン家にとっても、婚約の解消は受け入れられないものだった。
実の姉を陥れて婚約者を奪ったと知れ渡ったリリアンに、次の縁談など望めるはずもない。
ここでガルナシア家との婚約まで失えば、アンナを厄介払いしてまで伯爵家との縁を選んだサリバン家には、文字どおり何も残らなくなってしまう。
そのためサリバン家は、トーマスも噂の捏造に加担した以上、今さらリリアンだけを切り捨てることは許さないと、婚約の継続を強く求めているという。
つまりは、両家とも引くに引けず、互いに責任を押しつけ合っている状態なのである。
それでもガルナシア伯爵夫妻は、次男のルカリオを跡継ぎに変えるつもりはない。
長男であるトーマスへの執着を捨てられないのだ。
今では両家とも社交界で腫れ物のように扱われ、このままでは揃って没落する可能性すらあるという――。
事情を聞き終えたあと、アンナたちは遊戯室へ場所を移した。
ちょうどその頃には護衛たちの訓練と食事も終わっていたため、使用人に頼んでルカリオを呼んでもらった。
やがて遊戯室へ入ってきたルカリオは、アンソニーの姿を見るなり目を見開き、慌てて姿勢を正した。
「お初にお目にかかります。ガルナシア伯爵家次男、ルカリオ・ガルナシアと申します」
「そのようにかしこまらなくても結構ですよ。僕はもう、王位を退いた身ですから」
「ですが……」
「それより君が、アンナを助けるために、たった一人でこの屋敷へ忍び込んだ少年ですね?」
「……はい」
アンソニーは興味深そうにルカリオを観察したあと、遊戯室の中央に置かれたチェス盤を示した。
「ちなみに、チェスの腕もなかなかだと聞きましたが?」
「それなりには」
「では、実際に確かめてみましょう」
「……望むところです」
一瞬で緊張感も薄れたのか、前国王を相手に一歩も引かないルカリオに、アンソニーは満足そうに目を細めた。
初対面の挨拶もそこそこに、二人は盤を挟んで向かい合うことになった。
互いに最初の駒を動かしたところで、アンナはルカリオへ尋ねた。
「ルカ。ダニエル様から話を聞いたのだけど、サリバン家とガルナシア家のこと、本当なの?」
ルカリオは盤上から目を離さないまま、あっさりと肯定した。
「本当だよ。しかも、一切の誇張もない。特にリリアンと母さんの喧嘩は壮絶だった。花瓶もカップも割れるし、絵画は破れるし、カーテンはびりびりになるし。まさに阿鼻叫喚だったよ」
「そこまで……」
「アンナが戻るのであれば、まだ両家が立て直せる可能性はあるでしょう。しかし、このままでは難しいでしょうね」
アンソニーはそう告げながら、白いビショップを斜め前へ滑らせた。
「ましてアンナは、すでにガレッタ家へ嫁いだ身です。取り戻そうとすれば黙っていないと、そこの爺がトーマスへ警告したのでしょう? あちらには、もうどうすることもできませんよ」
「爺とはなんだ。お前も似たような年齢だろう」
「今は対局中です。余計な口を挟まないでください。……おや、そう来ましたか」
二人のやり取りを聞きながら、アンナは小さく息を吐いた。
誰かに陥れられたわけでも、アンナが復讐をした結果でもなく、彼らは自ら嘘をつき、互いを裏切り、勝手に崩れていったのだ。
「もしアンナやルカリオが、両家を助けたいと望むのであれば、私も一肌脱ぐが」
ダニエルの申し出に、アンナは迷うことなく首を横に振った。
「必要ありません」
けれどルカリオは、すぐには答えなかった。
盤上へ向けていた夕焼け色の瞳をわずかに伏せ、何かを考えるように黙り込んでいる。
その表情が気になったものの、アンナは何も言わずに、浮かびかけた問いを飲み込み、再び動き始めた二人の駒を見守った。




