7.新たな悪評
ダニエルはガルナシア家へ事情を説明し、ひとまずルカリオを屋敷で預かりたいと手紙を送った。
それから二週間後、アンナとルカリオがダニエルとともに遊戯室で過ごしていると、ガルナシア家からの返事が届いた。
ダニエルは使用人から手紙を受け取ると、二人の前で封を切った。
ところが、文面へ目を通すうちに、眉間に皺が寄っていく。
「……ルカリオ。読み上げても構わんか?」
「はい。俺のことでしょうから」
現在は家の中が立て込んでおり、次男のことまで構っていられないから、好きに使ってくれて構わない――要約すると、あまりにも非情すぎる内容だった。
予想していたこととはいえ、ルカリオの両親は、跡取りであるトーマス以外の息子には、本当に興味がないらしい。
その事実を改めて突きつけられたアンナは、まるで自分のことのように胸が痛んだ。
家を飛び出した息子の身を案じる言葉さえ、一言も書かれていなかったのだ。
けれど当のルカリオは、まったく気にしていないようだった。
「むしろ、あの家に戻らなくていいなんて、せいせいする」
もともと彼は近いうちに家を出て、どこかの騎士団へ入り、騎士見習いとして住み込みで働ける場所を探すつもりだったそうだ。
「それよりも問題なのは、ガレッタ様の悪評が増えたことだと思うんですけど」
ルカリオの言うとおり、ダニエルの悪評には新たなものが加わっていた。
女性だけでは飽き足らず、ついには若い少年へまで手を出すようになった、と。
悪名高いダニエルの屋敷に、伯爵家の少年が住み始めたというだけで、噂好きな人々にとっては格好な話のタネになるらしい。
家族にぞんざいに扱われたことよりも、自分のせいでダニエルの評判がさらに悪くなったことの方がショックなようで、ルカリオは落ち込んだ声でそう言った。
けれど、そんな彼の向かいで、ダニエルは気にするなとばかりに、大きな手で濃紺の髪を撫で回した。
「なに、今さら悪評が一つ増えたところで、痛くも痒くもない」
「ですが……」
ルカリオが暗い表情で口ごもる。
するとダニエルは、湿っぽくなりかけた空気を切り替えるように、チェス盤のナイトへ手を伸ばした。
「それよりも、勝負に集中しなくてよいのかな?」
そういえば二人は、手紙が届くまで勝負の最中だった。
アンナも盤を挟んで二人の横に座り、その対局を見学していたところだったのだ。
駒が盤上を移動した途端、ルカリオの顔色が明らかに変わった。
「あっ、まずい!」
ルカリオは慌てて盤上へ目を戻し、真剣な表情で次の一手を考え始める。
彼がこの屋敷へやって来て、二週間になるが、ダニエルは最初に言っていたとおり、時間ができれば、こうしてルカリオとチェスをしていた。
二人の戦績は、今のところほぼ互角らしい。
アンナにはまだルールがよく分からないので、今のように、時折こうして二人の対戦を見学しながら少しずつ覚えているところだった。
そして今回の勝負は、ルカリオの勝利で終わった。
「くっ、途中までは私の方が優勢だったというのに……」
「残念でしたね。これで俺の方が勝ち越しです」
「もう一回だ!」
「望むところですよ」
早くも次の勝負を始めようとする二人を見ながら、アンナは苦笑して遊戯室をあとにした。
と、廊下へ出たところで、大量の洗濯物を抱えたエリザと鉢合わせる。
「エリザ、私も手伝います」
「そんな。遅くまで旦那様のお仕事を手伝っているアンナ様に、洗濯までお願いするわけにはまいりません」
「いいんです。今は手も空いていますし、こういうことも覚えておきたいので」
アンナが引き下がらないことを悟ったエリザは、観念したように洗濯物の半分を渡してくれたので、二人は並んで屋敷の外にある洗濯場へ向かった。
ダニエルの屋敷には、大勢の人が暮らしている。
ダニエルがかつて妻として迎え、今は掃除や洗濯などの仕事を担っている女性たちや、彼を慕って自らやって来た元騎士や護衛、庭師、料理人などもいる。
並みの貴族よりもはるかに多くの人を抱えており、屋敷はいつも活気に満ちていた。
洗濯場へ着くと、すでに顔見知りになった女性たちが、石鹸を片手にせっせと服の汚れを落としていた。
アンナも彼女たちに倣い、作業を始める。
初めて挑戦した時はろくに汚れを落とせなかったが、何度か手伝ううちに、随分上達した……そう、アンナは思っていたのだが。
「アンナ様。まだ袖の部分に泥が残っております」
「もっと力を入れないといけませんね」
エリザに続き、元伯爵令嬢のフィオラが、洗い方のこつを教えてくれる。
「泥の汚れはなかなか落ちないから、腕だけじゃなくて、もっと腰にも力を入れて……」
「こうっ、でしょうか」
教えられたとおりに力を込めると、ようやく泥が落ち、袖は元の白さを取り戻した。
汚れの取れた服を満足げにみたアンナは、水で石鹸を洗い流し、しっかりと水気を絞る。
そして皺を伸ばした衣服を、洗濯場に隣接する物干し場へ運んで、日の当たる場所へ干していく。
その最中、近くの訓練場から、険しい声が聞こえてきた。
「踏み込みが甘い! 貴様らの実力はそんなものか!」
声の主は、かつては王国騎士団長を務め、現在はこの屋敷の警備を一手に担っているニコラスだ。
以前エリザから聞いた話によれば、ニコラスもまた、ダニエルに救われた一人なのだという。
ニコラスは知人に頼まれて借金の保証人となった際、悪質な金貸しに契約書を改竄され、身に覚えのない巨額の借金を背負わされた。
その窮状を耳にしたダニエルは、ニコラスを陥れた金貸しについて、独自に調査を始めた。
そして商業ギルドと王都の役所へ突き出した結果、金貸しはすべての資格と財産を没収され、表舞台から姿を消した。
当然、ニコラスの借金も、不正な契約によるものとして無効になった。
その恩を返したいと考えたニコラスは、ダニエルが商会を引退すると聞き、自らも騎士団長の座を後進へ譲った。
警備責任者として働かせてほしいと、この屋敷まで押しかけてきたそうだ。
先日、ルカリオが誰にも気づかれずアンナの寝室まで侵入したこともあり、訓練は以前にも増して厳しくなっているらしい。
洗濯物を干し終えたアンナが訓練場を覗くと、チェスの再戦を終えたらしいルカリオも、護衛たちに交じって鍛錬していた。
訓練が終わったあと、アンナはルカリオに、先ほどのチェスの再戦について尋ねてみる。
ルカリオが苦虫を噛み潰したような顔をしたため、今度はダニエルが勝ったのだとすぐに分かった。
夕方が近づくと、屋敷では晩餐の準備が始まった。
夕食までには、まだ少し時間がある。
アンナは執務室へ向かい、チェスを終えて仕事へ戻ったダニエルとともに、届いた書類を整理することにした。
ところがしばらくすると、普段から賑やかな屋敷のざわめきが、ひときわ大きくなった。
何人もの慌ただしい足音が廊下を行き交い、やがて執務室の扉が叩かれる。
報告を受けたダニエルは、呆れたように額へ手を当てた。
「……あの男。また何の連絡もなく来おったな」
――前国王のアンソニーが、今日も何の連絡もなく屋敷へやって来たのだ。




