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悪女に仕立て上げられた令嬢は、悪名高い老人に嫁がされる。だけど毎日幸せです。  作者: 春樹凜


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6.屋敷への侵入者



 ダニエルが警告の手紙を送って以来、トーマスから再び連絡が来ることはなかった。


 アンナが平穏な暮らしを取り戻してから、さらに数週間が過ぎた頃。


 それは、風のない、静かな夜だった。

 その日もダニエルとの会話が弾み、アンナが自室へ戻った時にはすでに夜も更けていた。

 エリザが就寝の支度を整え、燭台の火を消して部屋を出ていくと、部屋が暗闇に包まれる。


 アンナが寝台へ横たわった、その直後だった。

 寝台の下に落ちていた影が不意に動き、そこから、人影がむくりと起き上がる。


「…………!」


 窓から差し込むわずかな月明かりだけでは、顔までは見えない。

 けれどその人物の髪が、夜闇のような濃紺であることだけは分かった。

 その髪色から真っ先に思い浮かんだのは……少し前に長文の手紙を送ってきたトーマスだった。


「嘘、でしょう!?」


 どうして彼がここにいるのか。

 一体、何をするつもりなのか。

 いくつもの疑問が頭を駆け巡ったが、危険な状況であることだけは分かる。


 アンナは素早く寝台から飛び起きると、サイドテーブルに置かれた呼び鈴へ手を伸ばし、声を上げる。


「誰か――」


 しかし、侵入者の方が早かった。


「むぐっ……!」


 侵入者が呼び鈴を握ったアンナの手首を掴んで寝台へ押し戻し、同時に、もう一方の手で口を塞がれた。

 指から滑り落ちた呼び鈴は、厚い掛布の上へ転がり、アンナの手が届かない場所で止まる。

 悲鳴を上げようとしても、声が出ない。


 このまま襲われるのか、それとも、ここから連れ出されるのか。

 はたまた、あの手紙を読んで怒り狂った彼に殺されるのだろうか。

 最悪の事態を想像し、恐怖で身体が固まりかけた時、胸の奥からメリッサの声が聞こえた。




 ――――抵抗もせずに、黙ってやられるなんて性に合わないわ。




 でも、どうすればいいのか。




 ――――口を塞いでいる手を、引きちぎる勢いで噛むのよ!




 その言葉に背中を押され、アンナは口元を覆う手へ思いっきり歯を立てた。


「いってぇっ!」


 予想外の反撃を受けた侵入者が、思いのほか高い声を上げて手を緩め、その隙にアンナは大きく息を吸い込んだ。


「誰か来て――」


 けれど、叫び終える前に再び口を塞がれた。

 頼みの呼び鈴も、寝台の反対側に転がってしまって手が届かない。

 恐怖から涙が滲みかけた、その時だった。


「待てって、アンナ! 落ち着けっ、俺だって!」


 耳元で響いたのは、トーマスのものではない。

 けれど、よく知っている声だった。


 アンナは動きを止めて、目の前の人物を凝視すると、ちょうどその顔に月明かりが差す。

 そこにいたのは、夕焼け色の瞳をしたルカリオだった。


 名前を呼びたかったが、まだ口を塞がれたままなので、くぐもった声しか出ない。

 それに気づいたルカは、慌てて手を離し、寝台から急いで離れた。


「わ、悪い、アンナ! 俺も気が動転して……。怪我はしてないか?」

「え、ええ、大丈夫よ。それより……私の方こそごめんなさい。まさかあなただとは思っていなくて、思いっきり手を噛んじゃったでしょう? 痛くはない?」

「平気。このくらい、かすり傷だよ。勝手に忍び込んだ俺が悪いんだから、アンナが謝ることじゃないって」


 そう言って微かに笑う表情は、やっぱりアンナのよく知るルカそのものだった。

 安堵の気持ちからアンナも笑いかけたものの、すぐに表情を引き締める。


「それよりルカ。一体どうしてここにいるの? 私は元気に暮らしているから心配しないでって、手紙を送ったでしょう。まさか、届いていなかったの?」

「届いたよ。でも、あんなものを信じられるわけない!」


 ルカは声を抑えながらも、激しい口調で言った。


「相手は、あのダニエル・ガレッタだ。無理やり書かされたんじゃないかって考えていたら、いても立ってもいられなくなって……だから家を抜け出して、ここまで来たんだ」

「どうして、そこまで」

「アンナのことが心配だからに決まってるだろう!」


 ルカの顔が苦しげに歪む。


「トーマスの婚約者になってから、アンナはうちの両親にも散々こき使われていた。なのに身に覚えのない噂でトーマスから捨てられて、挙げ句にはダニエル・ガレッタのような屑に嫁がされるなんて、あんまりだろう! アンナは、何も悪いことなんてしていないのに」


 ルカの顔がくしゃりと歪む。

 アンナ以上に彼女のことを想い、心配してくれていたようだ。  

 ルカはアンナの手を握ると、ゆるぎない瞳で見つめて言った。


「なあ、アンナ。こんなところにいたら危険だ。今から俺と一緒に逃げよう」

「もしかして、そのためにここまで来たの?」


 家を抜け出し、一週間以上もかかる道のりをたった一人で進み、屋敷の警備をかいくぐってアンナの部屋へ忍び込んだ。

 すべて、アンナを助けるために。


「屋敷の裏手に、警備の薄い場所があったんだ。そこからなら外へ出られる。今が逃げる機会だ」

「あのね。気持ちは嬉しいわ、ルカ。だけど――」


 ダニエルは、ルカが考えているような人物ではない。

 それに、ルカが自分のためにここまで危険を冒す必要もない。


 そう説明しようとした時、先ほどの途切れた悲鳴がかすかに外まで届いていたらしく、廊下から複数の足音が近づいてきて、勢いよく扉が開いた。


「アンナ、何があった!」

「ダニエル様!」


 数人の警備を引き連れたダニエルは、室内にいる見知らぬ少年を認めると、即座に命じた。


「アンナから離れろ! お前たち、侵入者を捕らえなさい!」


 警備の男たちが、一斉にルカへ飛びかかろうとするので、アンナは慌てて叫んだ。


「ま、待ってください、ダニエル様! 彼は私の友人のルカリオです! 危害を加えに来たのではありません。少し事情があって、私を助けるために……」

「ルカリオ……?」


 ダニエルは、片手を上げて警備の者たちを制したあと、アンナを庇うように立つルカを、頭の先から足元までじっと見つめる。

 そしてふっと表情を緩めた。


「なるほど。アンナがよく話していた、あの少年か」

「はい。私が送った手紙を信じられず、助けるために一人でここまで来たようです」

「ほう。兄とは違い、自分の足でアンナを助けに来たのか」


 ダニエルは感心したように目を見開いたあと、豪快に笑った。

 そしてルカへ近づき、その肩を何度も叩く。


「ルカリオとやら。まだ若いというのに、なかなか骨のある男じゃないか。気に入ったぞ!」


 一方で強く肩を叩かれたルカは痛そうに顔をしかめながら、困惑した様子でダニエルを見た。


「あの……あなたが、ダニエル・ガレッタ様ですか?」

「いかにも。私が、気に入った女性を次々と妻に迎えては、飽きるまで弄んで捨てると噂されている、あのダニエル・ガレッタだ」

「…………」


 噂とは違うと気づいたのか、どういうことなのかと説明を求めるルカの視線が、アンナへ向けられた。


 なので、警備の者たちにはいったん下がってもらい、三人はアンナの寝室から、隣の談話室へ場所を移した。


 そこでアンナは、これまでの事情を初めから説明した。

 アンナがメリッサ・アナベルの生まれ変わりであること。

 メリッサとダニエルが、五十年前に想い合っていたこと。

 ダニエルの悪評は、虐げられていた女性たちを守るために、あえて訂正せずに放置していること。

 そしてアンナ自身も、この屋敷に残ることを望んでいること。


 ルカへ送った手紙には、文字だけで説明してもすぐには信じてもらえないと思ったので、詳しい事情を書いていなかった。

 もっとも、口頭で説明しても、信じ難いことには変わりはないようだ。


「ええと……つまりアンナは、この国どころか、周辺諸国でも伝説として語られているメリッサ・アナベルの生まれ変わりで」

「ええ」

「メリッサ様とガレッタ様は、五十年前に想い合っていて」

「そうよ」

「ガレッタ様の悪い噂は全部嘘で、女性たちが虐げられている事実もなくて」

「そのとおりよ」

「それでアンナも、自分の意思でここに残ることを決めた」

「ええ」

「…………分かった。いや、生まれ変わりについては、まだ半分も理解できてないけど」


 実際、話を聞き終えたルカの顔には、深い困惑が張りついていた。

 けれどしばらく頭を抱えたままだったルカは、やがて意を決したように立ち上がると、ダニエルへ深く頭を下げた。


「ガレッタ様。生まれ変わりについては、正直まだうまく呑み込めていません。ですが、あなたの悪評が誤解で、アンナがここでひどい扱いを受けていないことは分かりました」


 そしてルカは、頭を下げたまま続けた。


「あなたを侮辱するようなことを言ったことと、屋敷へ無断で侵入したことを謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」


 けれどダニエルは怒るどころか、鷹揚に笑った。


「いや、気にすることはない。私自身が悪評を訂正していないのだ。君が誤解するのも無理はない」

「ですが、侵入したことについては……」

「それはむしろこちらの不手際だと言えるな」


 その瞬間、ダニエルの表情が、一転して険しいものへ変わった。


「私一人が住んでいるのならまだしも、ここにはアンナをはじめ、これからの人生がある若者たちが暮らしている。身分ある客人が泊まりに来ることもある。それなのに、屋敷の警備の者は易々と君の侵入を許してしまった」


 ここでダニエルの口元に、普段とは異なる暗い笑みが浮かぶ。


「あやつらのたるんだ精神を、明日からみっちりと叩き直さねばなるまいな」


 いつも穏やかなダニエルから漂った冷気に、アンナは思わず身震いした。

 ところが胸の奥から伝わってきたメリッサの感情は、なぜか楽しげに弾んでいる。

 ……滅多に見られないダニエルの表情を目にできて、喜んでいるらしい。


 ダニエルは警備の者たちへどのような訓練を課すか考えているのか、しばらく黙り込んでいた。

 けれど、所在なさげに立っているルカへ視線を戻すと、ひとまずその件を脇へ置くように小さく息を吐く。

 それからルカリオを座らせ、穏やかな口調で言った。


「さて、ルカリオ。私は君へ咎を科すつもりはない。今日はもう遅い。客室を用意させるから、今夜はここへ泊まりなさい」

「ありがとうございます」

「明日、こちらからガルナシア家へ連絡しよう。誰か信頼できる者をつけて、責任を持って送り届ける。黙って出てきたのなら、ご両親も心配しているだろう」


 けれど、その言葉を聞いたルカは、自嘲するように口元を歪めた。


「心配なんてしていませんよ。あの家での俺の優先順位は、ずっと低いままですから。所詮、俺は伯爵家の跡取りではない方の息子です」


 アンナも、ルカの家での立場は薄々察していた。

 彼の両親が関心を向けるのは、長男であるトーマスばかりで、ルカがどこで何をしていても気に留めていないように見えた。


 ルカは一度唇を引き結ぶと、真剣な表情でダニエルへ向き直った。


「ガレッタ様。厚かましいお願いだとは分かっていますが、一つだけ聞いていただけませんか?」

「何かな?」

 

 そう前置きすると、ルカはアンナが想像もしていなかった願いを口にした。


「俺を、アンナが残るこの屋敷に置いてください」

「ルカ!?」


 アンナが驚いて声を上げるも、ルカの決意は揺らがないようだった。


「俺はまだ子どもですけど、剣には自信があります。屋敷の警備なら、少しは役に立てると思います。それ以外にも、庭仕事でも掃除でも、命じられたことは何でもします」

「…………この屋敷へ残りたいのは、単に伯爵家へ帰りたくないからか?」

「あの家のことは、正直どうでもいいんです。俺はただ、アンナのそばにいたいってだけで」

「私がアンナを虐げるつもりはないと、分かってくれたのではなかったかな?」

「それは分かっています。ガレッタ様は、アンナを傷つけたり、泣かせたりするような人じゃない。アンナがあなたを慕っていることも、この短い間に分かりました。だけど……次にアンナが泣くようなことがあった時、俺が隣にいたいんです。だって、ガレッタ様は――」


 ルカは最後まで言い切らず、ダニエルの白い髪と、皺の刻まれた顔をじっと見つめた。


 アンナには分からなかった。

 家を飛び出してここまで来て、アンナのためにここにとどまりたいなんて、友達想いにも程がある。  

 けれど、なんとなくアンナが口を挟めないような雰囲気を感じた。

 そのくらいルカの表情は真剣だったのだ。

 それに最終的に決定を下すのはこの屋敷の主であるダニエルである。


 長い沈黙のあと、ダニエルがふっと口を開いた。


「……ところで、ルカリオ。君はチェスが得意か?」

「え? あ、はい。まあ、それなりには」


 突然の質問に虚を突かれながらも、ルカは答えた。


「実は私の趣味はチェスでね。しかし、まともに対戦できる友人は少し遠くに住んでいて、そう頻繁には会えん。少々退屈しておったのだよ」

「はあ」

「ならば、ルカリオ。ひとまず私のチェスの相手として、この屋敷へ滞在することを許そう」


 ルカは一瞬、言葉の意味を理解できなかったように目を瞬かせたが、許可をもらえたのだと分かり、すぐにその顔が明るくなる。


「本当ですか!?」

「ああ。ただし、正式に家を出るかどうかは、ご両親とも話したうえで決めることになる。それまでは客人という扱いだ」

「分かりました。ありがとうございます。ですが……一ついいですか?」

「何かな?」


 ルカは、どこか挑むような笑みを浮かべた。


「手加減はしなくてもいいですよね?」


 ダニエルもまた、それに応えるように楽しそうに口角を上げる。


「その言葉、そっくりそのまま返してやろう」


 早くも盤上で競い合うつもりらしい二人を見て、アンナの頬も自然と緩んだ。

 ダニエルがこれほどあっさりルカの滞在を許した理由は、よく分からない。

 それでも、離れたままになっていた大切な友人とこれからは同じ屋敷で暮らせるのだと思うと、アンナは素直に嬉しかった。

 きっと、これまで以上に賑やかな毎日になるだろう。

 

 こうしてルカも、ひとまずダニエルの屋敷で暮らすことになった。



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