5.アンナの居場所
ダニエルの屋敷に残ることを決めた翌日、アンナはルカリオへ手紙を書きたいと申し出た。
彼のことだ、きっと今頃、悪名高い老人へ嫁がされたアンナの身を案じているだろう。
ダニエルはすぐに了承してくれた。
しかし、普通にガルナシア家へ送っても、アンナをふしだらな悪女だと信じている使用人が、ルカリオ本人へ届けてくれるとは限らない。
アンナから事情を聞いたダニエルは、信頼できる者を呼び寄せた。
「この手紙は、必ずルカリオ本人へ直接渡してくれ」
そう念を押したうえで、アンナの手紙を託してくれた。
これなら安心だ。
返事を求めているわけではない。
ただ、今は無事に暮らしていることと、幸せだから心配しないでほしいと伝えたかった。
それから一カ月ほどが過ぎ、ようやくこの屋敷での生活にも慣れてきた頃。
ダニエルは貴族ではなく、すでに商会の経営からも退いているので、アンナはてっきり、この屋敷で静かな余生を送っているものと思っていた。
ところが、屋敷には連日のように来客があった。
ダニエルが立ち上げた商会で現在も働いている者や、商人時代に彼から助けられた人々。
かつてダニエルに弄ばれて捨てられたと噂され、今は別の土地で幸せに暮らしている元妻たちも、夫や子どもたちを連れて訪ねてきた。
さらに驚いたことに、この国の前国王までもが、時折姿を見せにやってくる。
メリッサに執着した国王が退位させられたあと、代わって王位に就いたあの王弟殿下である。
息子へ王位を譲ったあと、王都から離れた土地で暮らしていることは、アンナも聞いたことがあった。
しかもダニエルとは昔からのチェス仲間らしい。
世間では悪名高いダニエルだが、屋敷を訪れる人々は、噂が真実ではないことを知っている。
皆、ダニエルを心から慕っており、彼に会いたくて遠方からわざわざ足を運んでくるのだ。
「まったく、こんな遠くまで来なくてもよいと、毎回言っておるのにな」
口ではそう言いながらも、来客を迎えるダニエルはいつも嬉しそうだった。
そしてアンナは、ダニエルがいくつもの孤児院を運営していることも知った。
ほかにも、手に職を持たない者が働けるようにと、屋敷のある高台から見下ろせる街には職業訓練校まで作っている。
ただし、いずれの事業にも、ダニエルの名前はほとんど表へ出ていない。
信頼できる者へ実務を任せ、ダニエル自身は必要な資金を提供し、重要な判断だけを下していた。
そのため王都で暮らしていたアンナは、彼の活動を何一つ知らず、耳に入ってくるのは、若い女性を次々と弄んでいるという悪い噂ばかりだったのだ。
表立って活動していないとはいえ、毎日のように届く書類へ目を通し、孤児院や職業訓練校に足を運び、現場の様子を確認する。
合間に来客もひっきりなしなので、ダニエルは毎日忙しそうに動き回っていた。
好きに過ごしてくれていいと言われていたアンナだったが、妻という立場にふんぞり返り、何もしない生活はアンナの性に合わなかった。
初めのうちは、エリザたちに交じって、掃除や洗濯などを手伝っていた。
だがやがて、視察へ出かけるダニエルに同行するようになり、書類仕事まで手伝うようになっていた。
「寄る年波には勝てんでな。特に書類を長く読んでいると、目がしぱしぱして辛いのだ」
「私でよろしければ、お手伝いします。未来の伯爵夫人になるための教育として、帳簿の管理や書簡の整理も学んでおりますから」
それらはすべて、ガルナシア家の役に立つため、必死に身につけた知識だった。
あの家のために努力したことが、まさかこのような場所で役に立つとは思わなかったが、努力したことが報われたようで嬉しかった。
「アンナがいてくれると、本当に助かる」
ダニエルは、仕事を終えるたびにそう言ってくれた。
メリッサの魂を持っているからではなく、アンナ自身の知識と働きを認め、必要としてくれている。
その言葉が嬉しくて、アンナはますますダニエルの役に立ちたいと思うようになった。
そして、メリッサの最愛の人だからという理由を抜きにしても、ダニエルという一人の人間を心から慕うようになっていった。
そんな時には決まって、メリッサの感情が伝わってくる。
――――私の愛した人は、やっぱり素晴らしい人でしょう?
そう自慢する声が聞こえてくるようだった。
もっとも、メリッサの意識が、常にアンナの中に存在しているわけではない。
前世の記憶を取り戻したあとも、身体と意識の主導権は完全にアンナにあった。
アンナの感情が大きく揺れた時、前世の記憶が鮮明に浮かび上がり、メリッサの記憶に触れる出来事があれば、彼女の感情がアンナの胸へ流れ込んでくるのだ。
ただし、再会した時のように、メリッサの感情に身体を突き動かされることは、あれ以来一度もなかった。
アンナとダニエルは、来客の合間や食事の時間に、さまざまな話をした。
メリッサと過ごした日々のことや、彼女が亡くなったあと、ダニエルがどのような人生を歩んできたのか。
話が弾み、気づけば夜更けになっていることもあった。
もう二度と叶わないと諦めていた人と同じ時間を過ごし、ただ隣に座り、言葉を交わし、同じことで笑える。
二人とって、この時間はかけがえのないものなのだろう。
表情が緩むダニエルと、鼓動の奥に感じるメリッサの感情を読み取ったアンナは、なんだか自分まで幸せな気持ちになった。
そんなある日、アンナのもとへ一通の手紙が届いた。
「アンナ様。ガルナシア家からお手紙が届いております」
「本当に?」
もしかすると、ルカリオからの返事かもしれない。
そう思って、アンナはエリザから分厚い封筒を受け取った。
しかし差出人の名前を確認した途端、期待は驚きへ変わった。
「トーマス様……?」
なぜ、婚約を破棄した元婚約者から手紙が届くのだろう。
ルカリオへ送った手紙が、何かの手違いでトーマスの手に渡ってしまったのか。
嫌な予感を覚えたアンナが封筒を見つめていると、エリザが気遣わしげに尋ねた。
「よろしければ、私が先に中身を確認いたしましょうか?」
手にした封筒はずっしりと重く、何枚もの便箋が入っているようだった。
それでも自分宛ての手紙である以上、まずは自分で読むべきだろう。
エリザの気遣いに礼を言って申し出を断ると、アンナは自室へ戻って封を切り、ゆっくりと、書かれている言葉を目で追っていく。
やがてすべてを読み終えたアンナは、深いため息を吐きながら、指先でこめかみを押さえた。
「…………」
長々と書かれた内容を要約すれば、こういうことだった。
アンナがいなくなってから、トーマスは何をしていても彼女のことを思い出すようになった。
リリアンを新たな婚約者として迎えたものの、彼女は伯爵夫人になるための勉強を嫌がり、少し注意されただけで泣き出す。
トーマスの両親とも衝突を繰り返しているらしい。
そんなリリアンと過ごすうちに、トーマスはアンナがどれほど自分やガルナシア家のために努力していたのか、ようやく気づいたという。
本当に愛していたのはリリアンではなく、アンナだった。
ダニエルはこれまでの妻と同様、いずれアンナにも飽きて捨てるだろう。
そうなったら、すぐに自分のもとへ戻ってきてほしい。
今度こそ大切にする――。
一体どの口が言うのだろう。
アンナを陥れてまでリリアンと結ばれたがったのは、ほかでもないトーマス自身だ。
トーマスへの恋慕は、すでに欠片も残っていないどころか、できることなら二度と顔も見たくない。
しかも彼は、ダニエルからアンナを助け出そうとするわけでもなく、アンナが捨てられるのをただじっと待ち、その時が来たら自分のもとへ戻れと言っているのだ。
その身勝手さには、怒りを通り越して呆れてしまった。
返事をせずに捨てることも考えたが、期待を抱かれたまま何度も手紙を送られても困る。
アンナは、自分はもうトーマスを愛していないことと、今後一切手紙を送ってこないでほしいということだけを、短く書いて返すことにした。
ただ、それだけでは不安もあった。
もしもトーマスが直接屋敷を訪ねてくるようなことになれば、ダニエルやここで暮らす人々にも迷惑がかかる。
アンナは返事を封筒へ入れる前に、念のためダニエルへ事情を伝えた。
すると、普段は柔和な笑顔を浮かべているダニエルの顔から、見る見るうちに笑みが消えていった。
「その手紙は、まだ出しておらんな?」
「はい。今から封をするところでした」
ダニエルはアンナからトーマスの手紙を受け取り、すべての文面へ目を通したあと、執務机へ向かい、新しい便箋を一枚取り出した。
そして迷うことなくペンを走らせ、短い手紙を書き上げる。
それをアンナの返事と一緒に新しい封筒へ入れ、しっかりと封をすると、エリザを呼んだ。
「これをガルナシア家へ送ってくれ」
「かしこまりました」
手紙を受け取ったエリザが部屋を出ていくのを見届けてから、アンナは恐る恐る尋ねた。
「ダニエル様。一体、何と書かれたのですか?」
「次にこのようなふざけた手紙を寄越したら、ガルナシア家を潰すと警告しておいた」
「つ、潰す……」
想像していた以上に物騒な言葉が飛び出し、アンナの頬が引きつった。
「なに、安心しなさい。向こうが君に手を出さない限り、私も何もせんよ」
にこやかに告げるダニエルだったが、冗談ではないことをアンナは知っていた。
ダニエルが長年かけて築いた人脈と信用を使えば、ガルナシア家を孤立させることは、決して不可能ではない。
そしてトーマスは、かなり肝の小さい男だ。
ダニエルからのここまで警告されれば、二度とアンナへ手紙を送ろうとは思わないだろう。
「アンナ。君の人生に、あの男が再び入り込む必要はない。もう何も心配しなくていい」
「……ありがとうございます」
過去に傷つけられそうになるアンナを、ダニエルはこうして守ろうとしてくれる。
それにここには、自分の存在を当たり前のように受け入れてくれる人たちがいる。
誰一人、アンナをふしだらな悪女だとは疑わない。
エリザは、アンナが仕事で疲れた日には、何も言わなくても温かいお茶を用意してくれた。
屋敷に残った元妻たちは、アンナを新しい女主人として遠巻きにすることなく、年下の妹のように接してくれる。
ほかの使用人たちも、アンナが視察から戻れば「おかえりなさいませ」と笑顔で迎えてくれた。
アンナは初めて、自分にも居場所ができたような気がした。




