4.今も変わらず
陽はすっかり沈み、暗くなってしまった部屋にエリザたちが明かりを灯す。
彼女たちが去った後、ようやく気持ちを落ち着けたアンナは、メリッサの記憶を取り戻してから今に至るまでの事情を、ダニエルへ順を追って説明した。
姿も年齢も、何もかもメリッサとは違う。
そんなアンナが、メリッサの記憶と魂を受け継いでいるなど、到底信じてもらえないような話をするのは不安だった。
けれどダニエルは途中で遮ることなく、最後まで静かに耳を傾けてくれた。
「そうか、あのメリッサが君の中にいるのか」
「信じて……いただけるのですか?」
アンナが恐る恐る尋ねると、ダニエルは目を閉じた。
二人きりの空間に、長い沈黙が落ちる。
やがて目を開いたダニエルは、アンナへ穏やかな微笑みを向けた。
「ああ、信じるとも。君が語ったのは、私とメリッサしか知らない思い出ばかりだからな。彼女には日記をつける習慣もなかった。血縁でもない君がそれを知っているのなら、メリッサの生まれ変わりだと考えるのが一番しっくりくる」
「ダニエル様……」
「それに姿が変わったとしても、一度たりとも彼女を忘れたことにない私には分かる。さっき私に抱きついて泣いていた時の表情は、紛れもなく私の知るメリッサだった」
ダニエルは、アンナの中にメリッサがいることを、迷わず認めてくれた。
そのことに、落ち着いていたはずのメリッサの心が歓喜し、彼女の心に引っ張られアンナの目からは再度涙がこぼれる。
ダニエルはわずかに目を細めると、少し震える手で懐からハンカチを取り出した。
メリッサの金色とは異なる瞳から流れる涙を、壊れ物に触れるような手つきでそっと拭ってくれる。
アンナの中のメリッサが落ち着きを取り戻し、涙も止まったところで、ダニエルがアンナに尋ねる。
「ところで君はいつ、自分がメリッサの生まれ変わりだということを思い出したんだ?」
「ええと、実は、ダニエル様もご存知かと思いますが、私には以前婚約者がおりまして……」
アンナは、元婚約者のトーマスとリリアンが結ばれるために、二人が自分を陥れたことを話した。
複数の男性と関係を持ったという偽りの噂を流され、トーマスから婚約を破棄されたこと。
そして家族から、悪名高いダニエルの花嫁になるよう命じられた直後、メリッサの記憶を取り戻したことも。
すべてを聞き終える頃には、ダニエルの穏やかな顔から笑みが消えていた。
「君がふしだらな女だという噂が偽りであることは、こちらでも調べさせていた。だからこそ、君をあの家から助け出そうと思ったのだが……まさか、噂を作り出したのが君の妹と元婚約者だったとはな」
膝の上に置かれたダニエルの手が、固く握られる。
「何の罪もないアンナを陥れるなど、外道のすることだ。虫唾が走る」
けれど、怒りを滲ませていたダニエルは、アンナの顔を見るとすぐに表情を和らげた。
「アンナ、君は随分と辛い思いをしたんだろう。一人で耐えたな」
「いえ。あの人と妹の悪意に気付かないほどに鈍感だった私も悪いのです」
「信じていた者に裏切られた君が、自分を責める必要はない。君は何も悪くない」
その言葉はルカリオがアンナに毎日かけてくれていたものと同じだった。
懐かしさと嬉しさからか、思わずアンナの口元が緩む。
「……私は何かおかしなことを言ったかな?」
「違います。ただ……私の無実を信じてくれた友人が、今のダニエル様と同じようなことを言って励ましてくれていたことを思い出して、つい」
「そうか、一人でもそういう存在がいてくれてよかった」
「はい。あの子のお陰で私は何とか生きていたようなものですから」
けれど今は、ルカリオだけではなく、ダニエルもアンナを信じてくれている。
メリッサのためにも、自分のためにも、アンナは前世の記憶を思い出せてよかったと心から思えた。
「だが、君としてはこのような爺の元に送られることになるのはさぞ不本意だったろう」
ダニエルのその言葉に、アンナは首を横に振った。
「そんなことはありません。世間では女好きで黒い噂の絶えないダニエル様ですが、本当のダニエル様はそんな方ではないと、メリッサの記憶から分かっておりましたから」
五十年も経てば、人は変わることもある。
メリッサが愛した頃には清廉だった人物が、年月を経て別人のようになっている可能性も、まったく考えなかったわけではない。
けれどアンナは確信していた。
自身の評判や利益より、誰かを救うことを優先するダニエルの本質は、何も変わっていないと。
「……ダニエル様。世間では、あなたは気に入った令嬢を妻に迎えては弄び、飽きれば捨てて次の獲物を探していると言われています。ですが、それは嘘ですよね」
アンナは、これまで社交界で耳にしてきた噂を思い返した。
ダニエルの妻となった女性たちは皆、家族から虐げられていたり、困窮した実家から金銭と引き換えに差し出されたり、さらに悪い相手へ嫁がされそうになっていた者ばかりだった。
家族から邪魔者扱いされ、奴隷同然に売り飛ばされようとしていた女性もいたという。
例えば、先ほどアンナを出迎えた赤毛のエリザは、子爵家の娘で、ダニエルが最初に迎えた妻だった。
義母と義妹から虐げられ、朝から晩まで使用人同然に働かされていた彼女を、家族はダニエルの提示した金額に目がくらみ、あっさりと差し出した。
ほかにも、実家の困窮を理由に売られるように妻となった伯爵令嬢や、容姿を理由に婚約を破棄され、周囲から嘲笑され続けた男爵令嬢がいた。
彼女たちの何人かは、今もこの屋敷で穏やかに働いているのは、既に確認している。
「ダニエル様は、妻として迎えた女性を捨てたことにして、元の家へ戻らずに済むようにしたのではありませんか? そして、行く場所を失った方々を、この屋敷で保護している」
屋敷内に姿の見えない女性もいた。
けれどダニエルならば、彼女たちについても決して悪いようにはしていないと、アンナにはそう思えた。
アンナの推測を聞き終えたダニエルは、観念したように息を吐くと、両手を軽く挙げた。
「ああ、君の言うとおりだ。私は確かに、さまざまな事情を抱える女性たちを妻として迎え入れてきた。だが、彼女たちを玩具にするためではない」
ダニエルは照れ隠しをするように、白い髪をかいた。
「偉そうに聞こえるかもしれんが、私はただ、劣悪な環境に置かれた彼女たちを助けたかったのだ。引退した身ではあるが、金だけはまだ余るほどあるのでな」
「なぜ、悪い噂を訂正なさらなかったのですか?」
「偶然立った噂ではあるが、私にとっても彼女たちにとっても、否定しない方が都合がよかったのだ」
ダニエルは少しだけ苦い顔をした。
「彼女たちを金と引き換えに差し出した家族だ。無事に暮らしていると知れば、再び利用しようとしたり、返せと騒いだりする者もいるだろう。私が悪人でいる方が、彼女たちは自由でいられるからな」
「では、今もこの屋敷に残っている方々は……」
「せっかく自由になったのだから、好きなように生きてほしいと思っておった。だが、助け出された礼として、私が死ぬまではここで働きたいと言われてしまってな。私のような爺の世話なんぞ、楽しくはないだろうに」
困ったように言いながらも、ダニエルの表情は嬉しそうだった。
一方、市井での生活を望んだ女性には、路銀と当面の生活費を渡して送り出したという。
中には、この屋敷を訪れた商人と恋に落ち、その人物と新たな人生を歩み始めた女性もいた。
やはりアンナの予想は正しかった。
守りたいもののためなら、悪人と呼ばれることすら厭わない――メリッサの愛したダニエルは、彼女の愛したままだったのだ。
一通りの事情を話し終えると、ダニエルは改めてアンナへ向き直った。
「事情は分かった。だが、アンナ。君自身は、これからどうしたい? ここに残ってもいい。別の場所で暮らしたいのなら、そのための支度もする。君が望む道を選びなさい」
アンナの答えは、もう決まっていた。
それでも一つだけ、きちんと確かめたいことがあった。
「ダニエル様」
アンナは居住まいを正すと、ソファの隣に座っていたダニエルに体を向ける。
「教えてください。ダニエル様は、まだメリッサ・アナベルのことを愛していますか?」
傾国の美女と呼ばれた、恋に奔放な女性。
けれど実態は、誰よりも愛を欲し、ただひたすらに愛されたかった女性。
そんな彼女が生きている時、与えられるのではなく自らも愛を与えたいと唯一思った彼女の最愛の人――。
ダニエルは、五十年前、メリッサに愛を告げられた時に見せたのと全く同じ笑顔を浮かべて、はっきりと答えた。
「ああ。私は今も変わらず、メリッサだけを愛している」
それが、彼が誰も妻として娶らなかった理由なのだろう。
時が経っても風化しない想い。
真摯なその言葉が、アンナとメリッサの胸を打つ。
誰よりも幸せになりたくて、けれど本当の幸せを掴むことなく死んでしまったメリッサ。
彼女と同じ魂を持ち、すべての記憶を受け継いでいるとしても、今ここにいるのはアンナだ。
それでもアンナは、メリッサに、そして半世紀も彼女を思い続けたダニエルに少しでも幸せになってほしい。
「分かりました。でしたらダニエル様。妻という形でも、使用人という形でも構いません。ダニエル様のお傍にいさせていただけませんか?」
「っ、しかしメリッサの前世を持っているとはいえ、今の君はアンナだ。彼女や私に気を遣う必要はない……」
「アンナである私がそうしたいのです」
メリッサのような容貌ではないし、性格も、彼女とは違う。
けれど、アンナがここにいたいと思うのは、メリッサのためだけではなかった。
アンナ自身も、ダニエルの優しさに救われた。
できることなら、この人の力になりたい。
ダニエルの瞳が大きく揺れ、何かを堪えるように俯き、固く両手を握る。
やがて長い息を吐いて顔を上げた時、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
けれどその表情は、どうしようもなく幸せそうだった。
「……ありがとう、アンナ」
ダニエルは噛み締めるように、その名を呼んだ。
「ならば、ここにいてくれ。ただし、メリッサの代わりとしてではない。アンナとして、君がここにいたいと思う間だけだ」
「はい」
こうしてアンナはダニエル様のお屋敷に留まることとなった。




