3.最愛の人
出発の朝はすぐにやってきた。
侍女をつけることは許されず、最低限の荷物を持ったアンナは馬車に押し込められ、満足そうな笑みを浮かべるリリアンと、その隣に立つトーマス様に見送られた。
少し前までなら、二人が並んでいる姿を目にしただけで、胸が引き裂かれるように痛んだだろう。
けれど今は、不思議なほど何も感じなかった。
ただ、馬車が走り出すのを感じながら、一つだけ心残りがあった。
出立があまりにも急すぎて、アンナをずっと信じて慰め、傍にいてくれたルカリオと最後の挨拶ができなかったことだ。
あちらへ着いたら、せめて手紙の一通でも出していいかお伺いを立ててみよう。
そんなことを考えながら、揺られること一週間余りで、ようやく目的の地へと辿り着いた。
ダニエルの屋敷は高台の上にあり、その下には大きな街が広がっていた。
けれど周囲には豊かな自然も数多く残されていた。
そういえば、やりたいことを全部やり切ったら、老後は空気の美味しいところでのんびりと過ごしたい、と彼が言っていたことを思い出し、思わずアンナの口元が緩む。
新しい花嫁の到着を告げると門はすぐに開かれた。
馬車は、アンナの身柄を屋敷の使用人たちに引き渡すと、長居はしたくないと言わんばかりに早々にこの場を立ち去った。
「お疲れ様でございます。旦那様はただいま出かけておりますが、夕食はご一緒にと仰せつかっております」
出迎えてくれたのは、アンナよりも年上らしい、頬にそばかすを散らした可憐な女性だった。
赤い髪をした彼女の顔には、見覚えがあった。
けれど、見知った顔は彼女だけではない。
黒みがかった金髪の細身の女性も、ふっくらとした頬が愛らしい茶髪の女性もだ。
しかも、誰もが明るく穏やかな顔をしている。
ダニエルの性格的に噂通りの人物ではないと思っていたが、その直感は正しかったようだ。
たとえ五十年という年月が経っていても変わらない彼の本質に、メリッサに呼応したアンナの胸にほんのりと火が灯るのを感じる。
部屋に案内されると、虐げる妻の為に用意されたにしてはあまりにも快適で、十分な広さを備えていた。
少ない荷物の中には、餞別代わりなのか、リリアンから無理やり押しつけられた、趣味の悪い紫色のドレスが入っていた。
さすがにこれを着て夕食の席へ出るのはためらわれる。
どうしたものかと思っていると、アンナの世話係となった、最初の赤毛の女性――エリザが、備えつけのクローゼットから一着のドレスを取り出してくれた。
これらも全て、ダニエルが用意したそうだ。
ぴったりの寸法というわけではなかったが、エリザが少し手直しをすれば問題なく着られたうえに、どれも一級品と呼べるものばかりだった。
そして――遂に迎えたダニエルとの対面の時。
先に晩餐の席へ着いていたアンナの前に、一人の男性が姿を現した。
メリッサの記憶に残る姿よりも、顔にはずっと多くの皺が刻まれ、髪も白くなっていた。
それでも、人懐っこい笑顔だけは、あの頃と何一つ変わっていない。
「私が君の夫となるダニエルだ。出迎えができずすまなかった」
短く切り揃えられた白髪の彼は現在齢七十のはずだが、背筋はピンと伸びており、実際の年齢よりも若く見える。
そんなダニエルに、アンナの中のメリッサが強く反応する。
――半世紀前、心から恋い慕いながら、結ばれることなくこの世を去った。
もう二度と会えないと思っていた最愛の人が、今、目の前にいる。
「っ……」
メリッサの感情が堰を切ったように一気に溢れ出す。
再びその姿を目に映すことが出来た喜びに、メリッサに呼応した私の瞳からは自然と涙がこぼれ落ちる。
けれどダニエルは、その涙を、悪名高い老人へ嫁がされたことを悲しんでいるのだと勘違いしたらしい。
途端に慌てふためき、必死に弁明を始めた。
「せ、世間では私は女性を弄ぶ最低な人間だと言われてはいるが、それは誤解なのだ! 事情があって彼女たちを妻として迎えたが、決して無理強いなどしておらん。指一本触れたこともない。本当だぞっ」
けれど、アンナの意志ではなく、まるでメリッサに乗っ取られたかのように勝手に身体が動く。
慌てふためきながらなおも必死に説明を続けるダニエルの胸に、アンナは勢いよく飛び込むと、彼の体を強く抱き締める。
突然のことに驚いたのか、ダニエル様の言葉が止まった。
代わって、アンナの唇から、メリッサの想いが溢れ出す。
「ずっと、会いたかった……! ダン、あなたを一人残して逝ってしまってごめんなさいっ!」
瞬間、ピクリとダニエルの体が反応する。
アンナとしての意識は、きちんと残っている。
けれど今は、メリッサの感情があまりにも強く、それに身を委ねることしかできなかった。
感情の高ぶるままにアンナは、ダニエルへの想いを泣きじゃくりながら伝える。
一緒に並んで話をする日々が幸せだったこと。
平民に変装して屋敷をこっそり抜け出し、彼と王都でお忍びデートをしたのが楽しかったこと。
誕生日にもらった、メリッサの大好きな花を模したペンダントは、それまでに数多の貴族達に貰ったどんな高価な贈り物よりも嬉しかったこと。
きっとダニエルは、今の状況がまったく理解できていないだろう。
初対面の十七歳の少女に突然抱き着かれ、愛称で呼ばれ、思い出話を語られる。
しかも、どれも彼とメリッサしか知りえない話なのだ。
もしかしたら、メリッサへの気持ちなど、もはや遠い過去のものになっているかもしれない。
二人の思い出さえ、忘れてしまっているかもしれない。
――けれど。
「なぜ、君がそれを知っているんだ。今、君が話したのは、私と……私が今も愛しているメリッサしか知らない思い出だ」
その言葉だけで、ダニエルもまた、この五十年メリッサを忘れずにいてくれたのだと分かった。
その事実にメリッサの感情がさらに高ぶって、もう何も言えず、ただひたすら彼の腕の中で泣き続けた。
ダニエルは戸惑いながらもアンナを抱き留め、泣き止むまで、昔と変わらない優しい手で頭を撫で、ずっと離さずにいた。




