2.今度こそ幸せに
――五十年前、このルドルフ王国には、傾国の美女と呼ばれる女性がいた。
伯爵家に生まれた彼女は、当時の社交界にいた、ありとあらゆる男性を魅了した。
彼女は大輪の薔薇を思わせる華やかな美貌を持っていたが、相手が求める女性像に合わせて振る舞いを変えた。
ある時は無垢な少女のように、ある時は清らかな聖女のように、またある時は、妖艶な娼婦のように。
公に決まった相手はいなかったが、数多くの男性が彼女からの唯一の愛を得ようと、贈り物を捧げた。
中でも群を抜いて執着していたのが、当時の国王陛下だった。
王妃がいるにもかかわらず彼女に夢中になった国王は、国庫から湯水のように金を引き出続け、ついには国の財政を傾かせ、その責任を取らされる形で退位させられた。
代わって王位に就いたのが、国王の弟である王弟殿下だった。
これが、彼女が傾国の美女と呼ばれる所以である。
そして社交界を騒がせたメリッサは、国王の退位と同じ頃に流行した病によって、あっけなくこの世を去った。
そんな悪女とも呼べる女性――メリッサ・アナベルの一生。
アンナも、彼女の名前くらいは知っていた。
世間では、多くの高貴な男性から望まれながら、誰一人として選ばないまま若くして亡くなったと伝えられている。
それもまた、彼女を伝説的な存在にした一因だろう。
彼女を題材にした物語は数多く存在するし、実際にメリッサと交流のあった男性の中には、今も存命の者がいる。
彼らの口からは、メリッサがいかに魅力的だったかが語られ、その姿を見たことのない若い令息たちは、伝説の美女へ想いを馳せた。
一方で令嬢たちは、そんな女性が自分たちと同じ時代にいなくてよかったと胸を撫で下ろした。
社交界を荒らし回り、権力者たちを次々と味方につける美女と競わなければならないなど、恐怖でしかない。
――今、アンナの中へ流れ込んできたのは、そのメリッサ・アナベルが生きた記憶だった。
どのくらい時間が経っただろう。
目元に少し触れると、結晶化した涙が固まって張り付いていた。
それを指先で拭うと、アンナは起き上がり、部屋の奥に置いていた鏡に向き合う。
燃え盛る炎を思わせる髪色でも、多くの貴公子の視線を絡め取ってきた猫目がちな金の瞳でもない。
見る者を圧倒し、数多の男性を屈服させたメリッサの美貌とは、今のアンナは正反対の容姿をしている。
春の陽だまりを宿した暖かな金の髪と、優し気な色合いの若草色の瞳。
随分と昔に亡くなった、厳しくも優しかった父方の母と瓜二つの容姿は、ひそかにアンナの自慢だった。
けれど彼女のことを嫌っていたらしい父親の好みは、今の母や妹のような華やかな美女なのだろう。
どうして急に前世のことを思い出したのかは分からない。
けれど、蘇った記憶を辿ると、メリッサ自身は国中を引っかき回すつもりなどなかったことが分かる。
彼女は幼少期より家族に虐げられて育った。
そのため人一倍愛情に飢えていたメリッサは、相手が望む女性を演じれば、もっと自分を好きになってもらえると思っていた。
自身の美貌を褒めそやす男性たちの前で、それぞれが求める女性像を作り上げて見せていたのだ。
さすがに妻のいる国王から迫られ、国庫の財産すべてを捧げると言われた時には、メリッサも困惑した。
けれど止める間もなく贈り物が次々と届けられ、気づけば国王は退位させられ、表舞台から姿を消していた。
メリッサにも何らかのお咎めがあったかもしれないが、運がいいのか悪いのか、処分が決まるより先に病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。
ちなみに、国王をはじめとした男性たちから贈られた品々は、すべて手つかずのまま彼女の屋敷に残されていたという。
当然だろう。
メリッサが欲したのは、お金や金品ではなく、愛だけだったのだから。
多くの男性を虜にしてきたメリッサだが、彼女の心中は幸福ではなかった。
だから、たった一人、本当に愛した人と結ばれることなく亡くなった彼女の無念が、同じように幸せを求めていたアンナの心へ呼応して、このタイミングでメリッサの記憶を取り戻したのかもしれない。
複雑な気持ちではあったが、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、メリッサの人生を知ったあとでは、なぜトーマス様をあれほど好きだったのか、自分でも分からなくなっていた。
冷静に考えれば、嘘の噂を流して妹と結ばれようとした男と、結婚せずに済んだのだ。
心につけられた傷まで消えたわけではないけれど、トーマス様への恋慕は、流した涙と一緒にすっかり外へ出ていってしまったらしい。
そんなことよりも気になることが一つあった。
それは、アンナがこれから嫁ぐ相手のことだ。
ダニエル・ガレッタという人物には心当たりがあった。
今の彼の年齢から考えても、おそらく同一人物だろう。
メリッサが初めて彼と出会った時、ダニエルはまだ、何の力も持たない一人の平民だった。
けれど、彼は弱い人間が虐げられていたら、率先してその人間を助けに入る優しさを持っていた。
それに優しい見た目に似合わず大きな野心を秘めていて、必ずこの国一番の商会を作り上げてみせるとキラキラした瞳で豪語していた。
そんな彼にメリッサは、生まれて初めて自分から恋をしていた。
その気持ちは明らかに、他の令息たちに抱く感情とは明らかに違っていた。
そう、彼女は最愛の人を見つけていたのだ。
ダニエルもまた、彼女を愛していた。
だからメリッサは、たとえ自身が貴族でなくなったとしても、彼についていきたいほどに心から愛していると本人に伝えた。
ダニエルは心から嬉しそうに笑い、いつか必ずメリッサを迎えに行くと約束してくれた。
その時の笑顔は、五十年が過ぎた今もメリッサの記憶に鮮明に刻まれていて、思い出すだけで、メリッサの魂を受け継いだアンナの胸まで、温かな幸福感で満たされていった。
けれど、その後すぐにメリッサは病死したため、約束が果たされることはなかった。
……それなのに、長い年月を経てあのダニエル様と巡り合うことになるなんて。
この記憶は、アンナとして生きる自分と、魂の奥で眠り続けていたメリッサの両方に、神様が与えてくれた贈り物なのかもしれない。
そう思って微笑むと、鏡に映ったアンナの笑顔がほんの少しだけ前世のメリッサと重なって見えた。




