1.悪女と呼ばれた令嬢
十七歳になったある日、アンナは突然、婚約者のトーマス・ガルナシア様から婚約解消を告げられた。
理由は、アンナが何人もの男性と浮気をしていたからだという。
しかもトーマスは、アンナと関係を持ったと証言する男たちを、何人も連れてきた。
彼女に見覚えはない。
当然だ。
本当に会ったことがないのだから。
けれど、どんなにそう訴えたところで、誰も信じてくれなかった。
アンナがふしだらな悪女だという噂話は貴族社会中に駆け回った。
数少ない友人はアンナのことを信じてくれたが、それ以外の人たちからは冷遇されるようになった。
妹のリリアンはアンナの顔を見るたびに、「お姉様がそんな人だったなんて」と涙を流した。
両親や兄からは、アンナのせいでサリバン家が社交界で肩身の狭い思いをしていると罵倒された。
トーマスから「君を信じていたのに」と、蔑むような視線を向けられたことも忘れられない。
政略結婚とはいえ彼のことが好きだったアンナは、何度も違うと訴えた。
けれど彼女の言葉が届くことはなく、婚約は解消された。
誰も信じてくれない……そんな悲しさと悔しさで、自宅の庭の隅で人目を避けるように泣いていた日々。
けれど、唯一アンナの味方になってくれた人がいた。
蹲る彼女の横について、ずっと背中をさすってくれた二つ年下のルカリオだ。
彼はトーマスの弟で、お互いの家同士の交流も多かったため、アンナは本当の弟のように思っていた。
ガルナシア家では、悪女であるアンナに近づかないようきつく命じられていたらしい。
それでもルカは命令を無視して毎日家を抜け出し、屋敷へこっそり忍び込んでは、泣きじゃくるアンナの隣に座って話を聞いた。
「アンナは何にも悪くない。俺はちゃんと知ってるから」
「ルカ……ありがとう」
鼻をすすりながらアンナがそう言うと、ルカは照れたようにそっぽを向く。
まだ幼さの残る彼に慰めてもらっていることを情けなく思いながらも、その時のアンナにとって、ルカの存在だけが救いだった。
けれどいつまでも泣いてるわけにもいかない。
悪女のレッテルを貼られた貴族の娘が婚約破棄された末路など、考えるまでもない。
まともな縁談がくる可能性は極めて低い。
そうなると彼女に残された道は、家を出て働く、になるだろう。
実際、貴族出身の女性が、王城や他家の屋敷で雇われることも珍しくない。
修道院に入る道もあるが、あの場所は俗世と切り離された世界である。
一度入れば外部との面会も許されず、生涯、神に仕えて暮らすことになる。
しかし。
「……修道院もいいかもしれないわね」
ひとしきり泣いて落ち着いた後、アンナが小さくそう漏らすと、途端にルカが慌てふためく。
「え、アンナそれ本気で言ってる!?」
「だって結婚はもうできないだろうし、それならいっそのことって」
するとルカは大真面目な顔で、アンナの案をバッサリ切り捨てた。
「それはダメ! だってあそこって、外部からの面会は一切認めないし、そしたら俺がアンナともう会えないじゃん。そんなの俺嫌だよ!」
暖かな夕焼け色の瞳が、まっすぐにアンナを射抜く。
彼がそこまで自分のことを慕ってくれてることが、アンナには嬉しかった。
思わず顔を緩めてルカを見ると、彼は口ごもりながらも、それに、と言葉を続ける。
「その、あれだよ、アンナが修道院に行く必要はないっていうか、結婚できないなんてことはないっていうか、俺が大人になってもアンナがまだ一人だったら俺がアンナと結婚してもいいし!」
「ルカ……」
風でさらりと濃紺の髪が流れ、頬から耳まで真っ赤に染まった横顔が見えた。
思春期真っただ中の彼にそこまで気を遣わせてしまい、アンナは申し訳なく思う。
もちろんこれが本心からじゃないのは分かっている。
それにルカは家を継ぐことはできないとはいえ、昔から剣の腕が達者で、将来は騎士団に最年少で入れるのではと言われている。
今はまだ少年らしい可愛らしさが残っているが、成長すれば目もくらむような美青年になるだろう。
彼ならきっと素敵な女性を見つけられる。
それでも、ルカの優しさが、すさんでいたアンナの心に染み渡る。
誰か一人でも自分を気にかけてくれていると分かっただけで、もう一度人生を頑張ろうと思えた。
「ありがとう、ルカ。嘘でも嬉しいわ」
「はっ!? 嘘って、言っとくけど俺は――」
その時茂みの向こうから、聞き慣れた声が近付いてくる。
見えたのは、妹のリリアンだった。
「ルカ、もう戻った方がいいと思うわ」
「――っ、分かったよ、また明日」
何か言いたげだったが、ルカはそのまま音も残さずアンナの視界から消える。
彼にしか知らない抜け道がこの庭にはあるようで、いつもそこから出入りしているそうだ。
残されたアンナは考える。
このまま鉢合わせると、またリリアンに泣いて責められるのは目に見えている。
可愛いあの子に泣かれるのは、アンナも辛い。
静かにしておいてやり過ごそうかと思った時だった。
「うまくいったね、リリアン」
聞き馴染みのある声に、アンナは思わず耳を疑う。
勘違いであってほしいと願いながら、そっと草木の隙間から声のした方を覗く。
けれど、そこには一番見たくなかった光景が広がっていた。
「ああ、リリアン。君を新しい婚約者にすることを、父上たちもようやく認めてくれたよ。これでもう、隠れて会う必要はない」
うっとりとした表情のリリアンと、向かい合っていた男性は――。
「トーマス様……」
声にならないほど小さな呟きが、アンナの唇からこぼれた。
ルカよりも少し淡い濃紺の髪と、整った顔立ち……見間違えるはずがない、元婚約者のトーマスだ。
宝石のようだと思っていた深紅の瞳が、今は熱を帯びてリリアンだけを見つめていた。
「まさかこんなにうまくいくとは思っていなかったよ」
「みんな他人の醜聞が好きなのよ。アンナの浮気の話なんて、私が流した時よりも何倍も大きく膨らんで広まっていたからびっくりしちゃった」
「君の家族まで、あっさりアンナを疑ったのには驚いたけどね」
「お父様もお母様も、お兄様も、昔からお姉様より私の方を可愛がっていたもの。お姉様は勉強ばかりで、可愛げがないでしょう? あなたより優秀なのも、ずっと気に入らなかったんじゃない?」
「……そうかもしれないね」
ここでようやく、アンナはすべてを理解した。
あの噂を流したのは、リリアンとトーマスだったのだ。
二人の顔がゆっくりと近づいていく。
これ以上見ていられず、アンナは固く目を閉じ、漏れそうになった嗚咽を必死に飲み込んだ。
――リリアンとアンナでは、同じ姉妹でありながらも家族から向けられる愛情に差があることは気づいていた。
だからこそ、アンナは嫌われないよう必死だった。
リリアンが家族に囲まれて楽しくお茶をしている間も、勉強しか取り柄がないと言われたアンナは、一人で机に向かい続けた。
それにガルナシア伯爵家は、代々王都で官職を務めてきた名門貴族であり、トーマスは将来その伯爵家を継ぐ身。
未来の伯爵夫人としてふさわしくあろうと自分なりに努力を重ねてきたつもりだった。
彼の両親から、子爵家の娘が我が家へ嫁げることをありがたく思えと高圧的な態度を取られても、ひたすら耐えた。
自分のしたいことはすべて我慢して、家のために、みんなのために自分を押し殺してこれまで頑張ってきた。
けれどそんなものは、何の意味もなかったのだ。
それにリリアンにあんなふうに思われていることも、アンナは気づかなかった。
リリアンはアンナにとっては、可愛い妹だった。
多少わがままで、淑女として危なっかしいところがあっても、それは天真爛漫な性格だからだと思っていた。
どうしようもない悲しみに暮れるアンナだったが、それからさらに追い打ちをかけるようなことが起こる。
「傷物でもいいと仰って下さってな。お前をあのダニエル・ガレッタと結婚させることにした」
部屋へ戻った後すぐに、珍しく上機嫌の父に呼び出されたアンナに告げられた言葉は、死刑宣告と変わりなかった。
「あらお姉様、よかったじゃない! ガレッタ様のようなものすごくお金持ちのお方がお相手だなんて。きっと幸せになれるわ!」
リリアンは無邪気にはしゃぎながらそう言った。
けれどその目は愉悦に歪んでおり、アンナを蔑んでいるのがよく分かる。
きっと今までもこういう目で見ていたのだろう。
妹の悪意にまったく気づかなかった自分が、腹立たしく、情けなく、悲しかった。
父やリリアンが喜んでいるのには、理由がある。
父よりもかなり年上のダニエル・ガレッタは、一代でこの国を代表するまでになった大商会を立ち上げた元商人の男だ。
現役時代は誰とも浮名を流さなかったが、商会を後継者へ譲り、王都から離れた土地へ移り住んでからは、うら若い娘を次々と妻に迎えるようになった。
そして、迎えた妻をぼろぼろになるまで弄び、飽きれば捨てているともっぱらの噂だった。
当然、まともな親ならば娘をそんな男のもとへ嫁がせようとはしない。
けれどダニエル・ガレッタは、気に入った娘の家族に大金を提示するらしく、それに目がくらみ、娘を差し出す者も少なくなかった。
そして今回は、アンナがその生贄として選ばれた。
結局自分にはその程度の価値しかなかったのだと、アンナは思い知らされた。
しかも出立は明朝だと告げられ、用意をするようにと部屋に返されたアンナは、力なくそのままベッドに横たわった。
厄介者も追い出せる上にお金も入ってくると、皆喜んでいるんだろう。
自分さえ犠牲になれば、みんな幸せになれるのだ。
アンナは思う。
自分の人生は一体何だったのだろうか。
涙などとっくに枯れたと思っていたのに、彼女の目から再びぽろぽろとあふれだす。
せめて、自分が本当に噂どおりの人間だったなら、好色な夫に嫁ぐことも、これほど恐ろしくはなかったのだろうか。
いっそのこと、そうであればよかったのに。
そう思いながらアンナは、運命を悲観し、ただ泣き続け、いい加減嗚咽声も出なくなったところで、ある想いが生まれる。
……どうして自分だけこんな目に遭わないといけないのか。
勉強も一生懸命にこなし、トーマスのことも将来は支えたいと思い頑張ってきた。
それなのに、彼女の努力はすべて否定され、金銭と引き換えに、年老いた男へ差し出されようとしている。
いつの間にか、自分のしたいことが何なのか分からなくなり、誰かのために何かをするのが当たり前になっていき……。
そしてこれからもただ搾取され、みんなの都合のいいように扱われる人生を送るのだろうか。
ただ、幸せになりたかっただけなのに。
――――そうよ、幸せになりたかった。それだけ。
頭の中で誰かの声が響く。
知らない声のはずなのに、なぜか懐かしさがこみあげてくる。
――――私の人生は私のもの。人生は一度きり。今度こそ幸せになりましょう。
「っ――――!?」
それは突然だった。
アンナの中に、見知らぬ誰かの記憶が雪崩のように流れ込んできた。




