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悪女に仕立て上げられた令嬢は、悪名高い老人に嫁がされる。だけど毎日幸せです。  作者: 春樹凜


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18/18

18.最後の妻



 それから数日が過ぎた夜。

 ダニエルは、ほとんど目を覚まさなくなっていた。


 呼吸は浅く、一度眠れば、何度呼びかけても反応がない。

 再び診察へ訪れた医師は、静かに首を横へ振った。


「今夜を越えられるかどうか……」


 覚悟していた言葉だが、それでも実際に告げられると、足元が崩れ落ちるような感覚がした。


 屋敷の者たちは、一人ずつダニエルの寝室を訪れた。


 ダニエルは目を覚まさないが、誰も「さようなら」とは言わなかった。

 これまでの感謝を伝え、明日もまた会えるように、「おやすみなさい」と声をかけて笑顔で部屋を出ていく。


 アンソニーも、寝台のそばへ立った。


「明日も来ますよ。僕ほど律儀な友人はいないと、いい加減認めてください」


 眠っているダニエルから、返事はない。

 それでもアンソニーは、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。


「返事は明日聞きます。おやすみなさい、友よ」


 そう告げると、アンソニーはダニエルの手へ一度だけ触れ、寝室を出ていった。


 誰もが笑っていた。

 けれど、その笑顔が、こぼれそうになる涙を隠すためのものだと、アンナには分かっていた。


 そして、ルカリオが寝台のそばへ立った。

 何かを言おうとしているのに、うまく声が出ないようだった。


 すると、眠っていたはずのダニエルが薄く目を開き、ゆっくりと手を持ち上げる。

 ルカリオはすぐに身を屈め、その手を取った。


「立派になったな、ルカリオ」

「……まだです」


 ルカリオは俯いたまま答えた。


「俺は、まだ何も返せていません」

「十分すぎるほど、返してもらったよ」

「そんなこと……」

「お前がこの屋敷へ来てから、随分と楽しかった。チェスの相手も増えたからな」


 ダニエルは、力の抜けた顔に、かすかな笑みを浮かべた。


「そうだ。あのあと始めた勝負の盤だが、できればそのままにしておいてくれ」

「……はい」

「続きは、また今度だ」


 ルカリオはダニエルの手を握ったまま、一度だけ強く目を閉じた。

 そしてゆっくりと息を吐くと、目を開き、いつものように挑むような笑みを浮かべた。


「次は絶対に、俺が勝ちますから」

「ああ。楽しみにしている」

「……おやすみなさい、ダニエル様」


 ルカリオはダニエルの手を額へ押し当ててから、名残惜しそうに離し、寝室を出ていった。


 そして――最後に部屋に残ったのは、アンナだけだった。

 彼女はダニエルの寝台のそばへ椅子を寄せ、その手を両手で包み込む。

 その指が、応えるようにわずかに動いた。


 以前ならば、アンナの手をすっぽりと包み込んでくれた大きな手。

 けれど今、握り返してくれる力はあまりにも弱く、そのことがアンナの胸を締めつけた。

 それでもアンナも、胸の奥にいるメリッサも、決してその感情を表には出さなかった。


 ダニエルがゆっくりとアンナを見つめる。


「アンナ」

「はい。ここにいます」


 アンナは、できる限り穏やかに微笑んだ。


「今夜は、私のそばにいてくれるか」

「もちろんです。どこにも行きません」

「そうか……よかった」


 ダニエルは安堵したように目を細めると、アンナの手を握ったまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「アンナ。私の最後の妻が、君でよかった。君はメリッサの魂を持っている。けれど同時に、君はアンナという一人の人間だ。私の最後の日々を幸せにしてくれたのは、ほかでもない君だよ」

「っ……」

 

 目から涙が零れそうになるのを、アンナは必死に堪える。

 そんなアンナへ、ダニエルは空いている手をゆっくりと伸ばし、その頬へそっと触れた。

 弱々しい指先が、涙を堪えるアンナの頬を優しく撫でる。


「この屋敷へ来てくれて、ありがとう」

「……私の方こそ、ありがとうございます。ダニエル様と出会えて、本当に幸せです」

「そうか。それなら、よかった」


 ダニエルは安心したように息を吐いた。


「ルカリオにも、屋敷の皆にも会えた。私が守ってきたものは、アンナが引き継いでくれた。君たちなら大丈夫だと分かっているから、残していくことも心配していない」

「はい。ここは、私たちが守ります」

「ああ。頼んだよ」

 

 その声は、もうほとんど囁きに近かった。


「私は、幸せだった。十分すぎるほどにな」


 そこでダニエルは言葉を止めた。

 しばらく迷ったあと、どこか困ったように笑う。


「だが……一人で逝くというのは、少し寂しいものだな」


 アンナの胸が、強く締めつけられた。


 その時だった。

 胸の奥から、よく知る声が聞こえた。




 ――――ダン。あなたは一人ではないわ。




 メリッサの声は、もう震えていなかった。

 それどころか、五十年前の彼女と同じ、明るく自信に満ちた声だった。




 ――――今度は、私が一緒に行くわ。




 その声が聞こえたのと同時に、ダニエルの唇がわずかに動いた。

 まるで、メリッサの声が彼にも届いたかのように。


 そして、アンナの手を握っていた指から、ゆっくりと力が抜けていった。


「ダニエル様……?」


 返事はなかった。

 ダニエルは穏やかな顔で目を閉じたまま、もう息をしていなかった。


 その瞬間、アンナの身体の中から温かなものが抜け出し、天へ昇っていくような、不思議な感覚が襲う。


 我慢できずにこぼした涙で滲む視界の中、アンナには見えた。


 寝台のそばに立っていたのは、五十年前と変わらない、美しい姿のメリッサだった。

 そして彼女の前には、白い髪のダニエルが立っている。

 彼は背筋を伸ばし、メリッサへ穏やかな笑顔を向けていた。


 メリッサが手を差し出すと、ダニエルはその手を取り、二人はしっかりと指を絡めた。

 そのまま柔らかな光に包まれ、並んで空へと昇っていく。


 けれど消えてしまう直前、メリッサが一度だけ振り返った。




 ――――忘れないで、アンナ。あなたの人生は、あなたのものよ。幸せになりなさい。




「メリッサ……?」


 アンナを見つめる顔には幸せそうな笑みが浮かび、その隣では、ダニエルもアンナを見つめ、優しく微笑んでいた。


 やがて二人の姿は、光の中へ溶けるように消えていった。


 メリッサの記憶も、彼女から受け取った強さも、アンナの中に残っている。

 ただ、メリッサ自身の意識だけが、五十年間待ち続けた最愛の人とともに旅立ったように思えた。


 本当にメリッサが迎えに来たのか、それとも、悲しみの中でアンナが見た幻だったのか。

 その答えは、アンナにも分からない。


 けれど……目の前にいるダニエルの顔には、これまで見たどの笑顔よりも、安らかで幸せそうな笑みが浮かんでいた。


 それが、すべての答えのように思えた。




 ――そうしてダニエルは、アンナに手を握られたまま、幸せそうな笑顔で静かに息を引き取った。



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