17.明日も、明後日も
屋敷を不在にすることが多いルカリオだが、最近は前にも増して、任務が終われば寄り道もせず、真っ先に屋敷へ帰ってくる。
帰宅した彼が最初に向かうのは、いつもダニエルの寝室だった。
その日もアンナは、寝室の窓辺に置かれた小さな机で、仕事の書類に目を通していた。
ダニエルが目を覚ましている間は同じ部屋で仕事をするのが、最近のアンナの日課になっていた。
やがて扉が開き、小さなチェス盤を抱えたルカリオが姿を現す。
「ダニエル様、一勝負どうですか?」
「病人なら簡単に勝てると思ったか?」
ダニエルが挑発するように笑うと、ルカリオも負けじと口角を上げた。
「まさか。病人じゃなくても、俺の方が勝ち越していますから」
アンナが近づいてダニエルの背中へクッションを入れると、ダニエルがゆっくりと上体を起こす。
ルカリオは寝台の脇へサイドテーブルを寄せ、その上にチェス盤を置いた。
「これまでの戦績は、俺の百五十二勝、ダニエル様の百五十一勝。引き分けが三回です」
「馬鹿を言え。私の記憶では、私が百五十二勝で、お前が百五十一勝だ」
「勝手に戦績を書き換えないでください」
「老人の記憶を侮るなよ」
「都合の悪い時だけ老人にならないでくださいよ」
そんな軽口を交わしながら、二人は盤を挟んで対局を始める。
アンナはそれを微笑ましく思いながらも見つめたあと、手元の書類に目線を戻す。
初めのうちは、以前と同じようにダニエル自身が駒を動かしていた。
けれど対局の途中、ナイトを持ち上げた指から力が抜け、駒が盤上へ転がった。
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
アンナも書類から顔を上げる。
それでもルカリオは、動揺した様子を見せず、何事もなかったかのように落ちた駒を拾うと、普段と変わらない声で尋ねる。
「どこへ動かすつもりだったんですか?」
「……そこだ」
ダニエルが視線で示した場所へ、ルカリオが駒を置く。
けれどダニエルはここで、自嘲するように目を伏せた。
「すまんな、ルカリオ。……自分で駒も動かせんのに、勝ったところで面白くないだろう」
けれどルカリオは、その言葉を気に留める様子もなく、あっさりと返した。
「なら、ダニエル様は口だけ出してくださいよ。俺が両方の駒を動かすんで」
そして、まるでいたずらっ子のようににやりと笑う。
「でも、こっそり自分に有利な場所へ置くかもしれないですけどね」
その言葉に、強張っていたダニエルの表情がわずかに緩んだ。
「相変わらず油断できんな。なにせお前は屋敷の警備をかいくぐり、アンナの寝台の下へ忍び込んだ男だからな」
「いつまで昔の話を持ち出すんですか!」
ルカリオが声を上げると、ダニエルは堪えきれなくなったように笑い声を上げた。
二人のやり取りを見守っていたアンナの口元にも、自然と笑みが浮かぶ。
けれど、その日の勝負は最後まで続かなかった。
半分も進まないうちにダニエルは疲れ、静かな寝息を立て始めたのだ。
ルカリオは盤を片づけず、そのまま寝台のそばのサイドテーブルの上に残した。
「続きは、また明日でいいよな」
眠っているダニエルへ小さく告げる声を聞き、アンナは返す言葉を見つけられなかった。
アンナは手にしていた書類を静かに閉じると、ルカリオとともに寝室をあとにした。
翌日、約束どおり、二人は昨日の対局を再開した。
勝負に勝ったのは、ダニエルだった。
ダニエルが勝ち誇ったように笑う。
一方のルカリオは、その場で床へ膝をつくと、悔しそうに絨毯を何度も叩いた。
「くそっ! 絶対に俺が勝てる勝負だったのに!」
「ふむ、残念だったな。まだまだ若輩者にはそう簡単に負けてやらないぞ」
「もう一回です! 次は絶対に勝ちますから!」
「よかろう。だが、少し休んでからにしてくれ。さすがに疲れた」
「……分かりました。じゃあ、休んだらもう一回ですよ。絶対ですからね」
ルカリオが念を押すと、ダニエルは楽しそうに頷いた。
そんな二人のやり取りを眺めながら、アンナは願った。
――こんな時間が、いつまでも続けばいいのに。
けれど、アンナがどれほど願っても、時間は無情にも少しずつ先へ進んでいく。
それから、さらに二カ月ほどが過ぎた。
皆が以前と変わらない笑顔を見せる中でも、ダニエルが口にできる食事の量はさらに減っていった。
この頃にはダニエルは一日のほとんどを眠って過ごすようになり、目を覚ましても、水や薄いスープをわずかに口へ運ぶだけになった。
その日も診察を終えた医師は、ダニエルの寝室を出ると、アンナだけを別室へ呼んだ。
重い表情を見た瞬間、何を告げられるのか分かってしまった。
「率直に申し上げます」
医師は慎重に言葉を選びながら続けた。
「数日。長くとも、一週間ほどかと思われます」
その言葉を、アンナはすぐには理解できなかった――いや、したくなかった。
長くても、一週間。
ほんの少し先に、ダニエルのいない時間が待っている。
「そう、ですか」
どうにかそれだけを返し、医師へ頭を下げる。
医師が帰った後も、アンナはしばらくその場から動けなかった。
胸の奥が、引き裂かれるように痛み、我慢しなければいけないと分かっているのに、目からポロリと涙がこぼれる。
それはアンナ自身の悲しみであり、同時にメリッサのものでもあった。
むしろ、五十年前に一度ダニエルと死に別れたメリッサの方が、強く苦しんでいるのかもしれない。
それでも、メリッサは泣き叫ばなかった。
やがて、震えるほどの痛みの中から、彼女の思いがゆっくりと浮かび上がった。
――――アンナ、笑いなさい。
聞こえてきた声はかすかに震え、それでもどこか力強く聞こえた。
今の自分たちがダニエルにできることは、残された時間を、ダニエルに幸せな気持ちで過ごしてもらうことだ。
アンナは誰もいない部屋で、小さな声で答えた。
「そうね、メリッサ。最後まで、笑っていましょう」
その日の夕方、アンナは屋敷で暮らす者たちを再び食堂へ集めると、医師から告げられたことを、言葉を濁さずに伝えた。
話し終えたあと、静まり返った食堂には、すすり泣く声が聞こえる。
エリザは口元を押さえ、ニコラスは固く目を閉じていた。
ルカリオも唇を噛み、漏れそうになる嗚咽を必死にこらえていた。
アンナは皆を見渡し、泣きそうになるのを堪えながら言った。
「残された時間を、悲しみだけで埋めたくはありません。ですから最後まで、ダニエル様のそばで、これまでどおり笑っていましょう」
やがてエリザが涙を拭って顔を上げると、そこには普段の彼女と同じ笑顔が浮かんでいた。
「旦那様には最後まで、いつもの賑やかな屋敷で過ごしていただきましょう」
「……俺も、そうします」
ルカリオも目を赤くしながら、まっすぐにアンナを見返した。
その言葉に、一人、また一人と顔を上げていく。
皆、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
それでも前を向き、アンナへ笑ってみせた。
その翌朝も、屋敷にはいつもと変わらない明るい声が響いた。
医師から告げられたことは、アンソニーにもすぐに知らせた。
彼の暮らす街までは距離があり、間に合わない可能性もあるのではないかとアンナは不安に思っていた。
けれど使いを出してから数時間後、アンソニーは屋敷へ姿を現した。
「随分早い到着ですね」
驚くアンナへ、アンソニーは何でもないことのように答えた。
「実は、数日前から麓の街に宿を取っていたのですよ」
ダニエルが一日のほとんどを眠って過ごすようになったと聞き、いつ呼ばれても駆けつけられるよう、近くに来ていたのだという。
屋敷の客室へ泊まることもできたはずだが、看病で忙しい使用人たちへ、余計な気を遣わせたくなかったらしい。
もっとも本人は、
「何度も馬車で往復するのが面倒だっただけです」
としか言わなかった。
アンソニーはそのまま、ダニエルの寝室へ向かった。
寝台に横たわるダニエルは、足音に気づくと、ゆっくりと目を開けた。
「また来たのか。随分と暇なのだな」
「ええ。引退した老人ですから、時間だけは余っております」
アンソニーがいつもと変わらない口調で答える。
「こんなに私の様子を頻繁に見に来るとは。さては、お前……昔から私のことが相当好きだったのだな?」
「今さら気づいたのですか? ただし、友人としてですよ。私の最愛は亡き妻だけですので。変な勘違いはなさらないでください」
「誰がするか」
二人は顔を見合わせ、かすかに笑った。
アンナたちは気を利かせ、しばらく二人きりにすることにした。
何を話したのかは分からない。
しばらくして寝室から出てきたアンソニーの表情は、普段と変わらなかったが、その目元は少しだけ赤くなっている。
ダニエルの寝室の前で、アンソニーは柔らかい声音で言った。
「アンナ。ダニエルは、あなたがこの屋敷へ来てから、以前よりもよく笑うようになりました」
「そう、なんですか?」
「ええ。メリッサと一緒にいたあの頃と、同じ顔で笑うようになった」
アンナとメリッサの胸が、きゅっと締めつけられる。
アンソニーは、そんな彼女へ穏やかな目を向けた。
「ダニエルのところへ来てくれて、ありがとう」
「……私の方こそ、ダニエル様に救っていただきました」
「そうですか」
アンソニーは目元を和らげた。
「ならば、あの男も少しは役に立ったようですね」
「少しだなんて。私も、それにルカリオも、ダニエル様にはたくさん救ってもらいました。ここにいてくれてもいいと、私たちの居場所を与えてくれた、大切な人です」
アンナがきっぱり答えると、アンソニーは小さく笑った。
「では、最後までそばにいてやってください」
「そのつもりです」
アンナが頷くと、アンソニーはもう一度だけ寝室の扉を振り返った。
「僕は宿へ戻ります。明日も明後日も、顔を出します。ですが……何かあれば、すぐに知らせてください」
そう告げて、アンソニーは屋敷をあとにした。




