16.守りたい温かな時間
あの二人が屋敷へ押しかけてきた日から季節が一つ巡り、冬の冷たい風が、高台にある屋敷の窓を揺らすようになった頃。
その日、ダニエルは朝食の席へ姿を見せなかった。
毎朝、誰よりも早く起きて庭を歩くのが日課だった彼が、何の連絡もなく遅れることは滅多にない。
不安を覚えたアンナがエリザへ尋ねると、彼女は心配そうに眉を寄せた。
「今朝は身体が重く、起き上がれないと仰っております。先ほど、医師を呼ぶよう使いを出しました」
アンナはすぐにダニエルの寝室へ向かった。
扉を叩いてから中へ入ると、ダニエルは寝台へ横たわっていた。
「ダニエル様!」
「アンナか。そう心配そうな顔をするな。少し風邪を引いただけだ」
口元にはいつもの笑みが浮かんでいる。
けれど声には張りがなく、顔色も悪い。
額へ触れると、アンナの手のひらへ高い熱が伝わってきた。
「少しどころではありません! 医師が来るまでは、絶対に起き上がらないでくださいね」
「もとより今は、起き上がるだけの力がないよ」
冗談めかして笑うダニエルを、アンナは叱る気にもなれなかった。
胸の奥へ不安が重く広がっていき、同時にメリッサのものと思われる感情も流れ込んできた。
言葉にはならない。
メリッサは何も言わなかった。
ただ、ずっと先にあると思い込んでいた何かが、いつの間にかすぐそばまで近づいてきていた――そんな切実な恐怖だけが、痛いほど伝わってきた。
到着した医師によると、寒さで体調を崩したのだろうとのことだった。
薬を飲み、温かくして休めば、熱は数日のうちに下がるだろう。
その言葉どおり、三日ほどで熱は落ち着いたが、ダニエルの身体から失われた力は、なかなか元のようには戻らなかった。
初めのうちは、エリザに支えてもらいながら寝台を下り、窓際の椅子へ移ることもできた。
それが次第に、起きていられる時間が少しずつ短くなり、食欲も湧かないのか、食べる量もかなり減ってきた。
熱が下がってから一週間ほどが過ぎた頃、医師から改めて話があると言われた。
大切な話ならば自分も聞きたいと、ルカリオも騎士団へ休暇を願い出て、屋敷へ戻ってきた。
アンナとルカリオが腰を下ろすと、向かいに座った医師は二人の顔を順に見たあと、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「重い病が見つかったわけではございません。ですが……ダニエル様はすでにご高齢です。一度大きく失われた体力を、以前と同じところまで戻すのは、容易ではありません」
「それは……もう、元のようには起き上がれないということですか?」
アンナが尋ねると、医師はすぐには答えず、わずかに視線を伏せた。
「断言はできません。ですが、この先も少しずつ衰弱が進む可能性は高いかと。今は無理に起き上がらせず、穏やかにお過ごしいただくことが何より大切です」
「何か、俺たちにできることはありませんか?」
それまで黙っていたルカリオが、握り締めた両手を膝へ置いたまま尋ねた。
「少しでも口にできるものをご用意し、身体に負担をかけないようにすること。そして、そばで話をして差し上げることです」
医師の言葉を聞きながら、アンナは唇を噛み締める。
胸の奥にいるメリッサは、やはり何も言わない。
けれど息をするのも苦しいほどの痛みが、胸の内側へ広がっている。
それがアンナだけのものではないことは、考えるまでもなく分かった。
寝台から起き上がれない日が増えても、ダニエルは屋敷や施設の近況を聞きたがった。
「寝ているだけでは退屈で仕方がない。今日は、何か変わったことはなかったか?」
事業はすでにアンナの手へ渡っているため、ダニエルへ報告する義務はない。
それでも彼が楽しみにしていることが分かっていたので、アンナは比較的簡単な報告書を寝室へ持ち込み、その内容を読み聞かせるようになった。
けれど、ダニエルが寝込んでからというもの、屋敷からは少しずつ活気が失われていった。
使用人たちは寝室の前を通るたびに足音を忍ばせ、普段は賑やかな食堂でも、自然と会話が少なくなる。
この屋敷で長く暮らしてきた者たちにとって、彼は主人というだけではない。
恩人であり、家族であり、ここへたどり着いた者たちを迎え入れてくれた大切な存在なのだ。
アンナ自身も、屋敷を包む重苦しい空気に飲み込まれそうになっていた。
メリッサの感情も、あの日からずっと深く沈んでいる。
そしてアンナは、ダニエルが元気でそこにいるだけで、この屋敷は明るかったのだと初めて知った。
だがある日、アンナはふと思った。
――このままでは、いけない。
ダニエルは、誰かが悲しんでいるのを放っておけない人だ。
屋敷中が静まり返り、皆が暗い顔をしていれば、自分のせいでそうなったのだと気に病んでしまうだろう。
そうなれば、安心して身体を休めることもできないかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、ずっと沈んでいたメリッサの感情が、わずかに動いた。
――――そうね。あなたの言うとおりだわ。
胸の奥から、久しぶりに彼女の声が聞こえた。
――――私、自分がつらいことばかり考えて、ダンの気持ちを考えていなかったみたい。私たちが悲しい顔をしていたら、ダンまで悲しくなってしまうわ。だから笑いましょう。あの人が、何も心配せずに休めるように。
本当は誰よりも苦しいはずなのに、それでも彼女は言った。
アンナも同意するように、胸元に手を当てて、小さく笑って頷いた。
その日の夕方、アンナは屋敷で暮らす者たちに声をかけ、食堂へ集まってもらった。
「皆さんがダニエル様を心配していることは、分かっています。悲しむなとも、不安になるなとも言いません。私だって同じです」
アンナは集まった者たちの顔を、一人ずつ見渡す。
エリザをはじめ、中にはすでに目を潤ませている者もいた。
「ですが、私たちが暗い顔をしていたら、ダニエル様はきっと心配なさいます。自分のせいで、この屋敷から笑顔が消えたと思ってしまうかもしれません」
アンナは一度言葉を切り、両手を胸の前で握ると、あえて明るく笑ってみせた。
「ですから、せめてダニエル様の前では、いつもどおりに過ごしましょう。いつものように話しかけて、くだらないことで笑って、明るい屋敷のままでいましょう!」
食堂がしんと静まり返り、しばらく誰も口を開かなかった。
そんな中、最初に声を上げたのはエリザだった。
彼女は目元を手の甲で拭うと、空気を切り替えるように、ぱん、と手を叩いた。
「みなさん、アンナ様の言うとおりです。旦那様は、静かすぎる屋敷などお好きではありませんからね」
その言葉に、ほかの者たちも次々と声を上げる。
「ではまず、護衛たちに、廊下を忍び足で歩くのをやめさせましょう。あれでは、警備の者たちの方が不審者に見えます」
ニコラスが真面目な顔で言うと、食堂のあちこちから小さな笑い声が上がった。
「それなら私は、旦那様のお部屋へ持ち込めるお菓子をたくさん用意します。皆でお菓子を囲んでお話しすれば、旦那様も退屈せずに済むでしょう?」
料理長がそう意気込む。
するとフィオラも、勢いよく手を挙げた。
「私も、旦那様にお話ししたいことがたくさんあります。この間、エリザさんが干していたシーツを風に飛ばして、庭中を追いかけ回したこととか」
「フィオラさん、それは話さなくてもいいことです!」
エリザが慌てて止めると、今度こそ食堂中に明るい笑い声が広がった。
それから少しずつ、屋敷の中に以前のような明るい空気が戻り始めた。
けれど、無理に明るく振る舞うわけではなく、ダニエルがいない前でも、お互いに大きな声で挨拶を交わし、食事の席では今日あった出来事をおもしろおかしく話し、誰かが失敗すればいつものように笑う。
そうしているうちに、沈んでいた者たちの表情も、本当に少しずつ明るくなっていった。
翌朝から、ダニエルの寝室のカーテンは大きく開けられ、冬の柔らかな光が差し込む部屋には、庭師が温室で育てた白い花が飾られた。
使用人たちは寝室へ入るたびに、屋敷で起きた出来事をダニエルへ話した。
料理人がスープの味つけをめぐって言い争ったこと。
庭師が大切に育てていた花を、鳥に食べられてしまったこと。
ニコラスの訓練が厳しすぎて、若い護衛たちが歩けなくなっていたこと。
「どいつもこいつも、病人の部屋でする話ではないな」
そう言いながら、ダニエルは楽しそうだった。
料理人も、食べきれないと分かっていながら、ダニエルの好きな料理を少しずつ作った。
「一口だけでも食べてください。残りは私たちでいただきますから」
「初めから自分たちで食べるつもりではないのか?」
「まさか。そのようなことはございません」
明らかに目を逸らした料理長を見て、ダニエルは声を立てて笑った。
また、アンナはダニエルと親しくしてきた者たちへ、彼の状態を知らせる手紙を送っていた。
そのため屋敷には、ダニエルを案じる者たちが、遠方から次々と見舞いに訪れるようになった。
ただし、彼の身体へ負担をかけないよう、一度に訪れる人数と滞在する時間は、アンナが厳しく決めた。
誰も、ダニエルには泣き顔を見せなかった。
孤児院の子どもたちからは、たくさんの絵や手紙が届いたので、アンナが一枚ずつ読み上げる。
『ダニエルさま、はやくげんきになってください』
『こんど、ぼくがつくったパンをたべてください』
『アンナさまとルカせんせいと、まってます』
字を覚えたばかりの子どもが書いたらしく、形の崩れた字で、それでも一生懸命書いた文字が並んでいる。
ダニエルは手紙を受け取ると、細くなった指で、紙の表面をそっと撫でた。
「私がしたことも、無駄ではなかったようだな」
「無駄だったことなど、一つもありません」
アンナは、間髪入れずに答えた。
「ダニエル様が助けた方たちが、今度は別の誰かを助けています。あなたが始めたことは、この先もずっと続いていきます」
「そうか」
ダニエルは目を細めた。
「それなら、安心だ」
アンソニーも、知らせを受けるとすぐに屋敷を訪れた。
いつもなら先触れもなく現れる彼が、この日ばかりは事前に手紙を寄越し、ダニエルの体調がいい時間を確かめてからやって来た。
「今日は見舞いの品をお持ちしていません。旧知の友である僕の元気な姿が、何よりの贈り物でしょうから」
「病人への嫌がらせかな?」
「随分な言いようですね。せっかく遠くから、他でもない大親友のこの私が来て差し上げたというのに」
「誰も来てくれとは頼んでおらんよ」
二人は以前と変わらない軽口を交わし、最後には顔を見合わせて笑った。
アンソニーも長居はせず、「また来ます」とだけ告げて、その日は屋敷をあとにした。
皆に囲まれ、目元を和らげながら話に聞き入るダニエルを見て、アンナは、自分たちの選択は間違っていなかったのだと心から思った。
――誰も口にはしなかった。
けれど、ダニエルとこうして笑い合える時間が、少しずつ残り少なくなっていることを、皆が分かっていた。




