15.私たちの家族
「……は?」
ガルナシア伯爵の言葉に、ルカリオの夕焼け色の瞳が冷たく細められた。
「意味が分かりません。なんで俺が――」
「トーマスには、今回の騒動を引き起こした責任がある。このまま家督を継がせることは難しいと判断した。だが、お前は騎士として功績を重ねているそうではないか。今ならば再び伯爵家の籍へ戻し、後継者にしてやってもよいと言っているんだ」
「してやってもよい、ですか」
ルカリオの口元に、乾いた笑みが浮かんだ。
かつて長男にしか関心を向けなかった父親は、家を立て直すため、ついにあのトーマスさえ切り捨てるつもりらしい。
けれど今度はルカリオが言い返すより早く、アンナが静かに口を開いた。
「ガルナシア伯爵。ルカが、ガルナシア家へ戻ることはありません」
「私はお前に聞いているのではない」
「承知しております。……ですが、ルカの意思を無視して、勝手に将来を決めようとなさっているのを黙って聞いてはいられません」
アンナは、ガルナシア伯爵から逸らすことなく、強い瞳でまっすぐに見つめた。
「ルカがこの屋敷へ来た時、あなたは『次男のことまで構っていられないから、好きに使ってくれて構わない』と書いていました。その手紙は、今もこの屋敷に保管されています」
「あの時は、家の中が混乱していたのだ」
「混乱していれば、息子を捨ててもいいと?」
「捨てたわけではない!」
「では、なんですか」
アンナの声には、自分でも驚くほど強い怒りが滲んでいた。
「あなたは、ルカがどれほど努力してきたかご存じですか?」
「…………」
ガルナシア伯爵は何も答えない。
アンナは昔から、ルカリオが剣を振る姿を何度も見てきた。
まだ小さな身体には木剣が大きすぎるように見えた頃から、彼は一人で何度も素振りを繰り返していた。
手のひらにまめができ、それが潰れて布を巻いていて、それでも彼は稽古をやめようとはしなかった。
家を出るために剣を選んだのだと話してくれたが、それでも、彼が必死に努力してきたことに変わりはない。
それなのに、騎士として名を上げた途端、後継者にしてやるから戻ってこいだなんて。
「必要のない時には他人へ押しつけて、ルカが騎士として活躍するようになったら、今度は跡継ぎとして連れ戻そうとする。そんなの、あまりにも勝手です」
アンナの声には、次第に熱がこもっていった。
「ルカを、必要な時だけ息子扱いしないでください。ルカは、あなた方の都合に合わせて捨てたり拾ったりしていい人ではありません!」
気づけばアンナの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
その時、激しく揺れるアンナの感情に呼応するように、胸の奥からメリッサの声が響いた気がした。
――――そうよ、もっと言ってやりなさい! 自分の息子を何だと思っているの、この大馬鹿者!
メリッサも、アンナと同じくらい腹を立てているらしい。
その勢いに背中を押され、アンナはさらに言葉を続けようとした。
「それに――」
けれど、そこで頬へ柔らかな布が触れた。
アンナが驚いて隣を見ると、ルカリオがハンカチを手に、彼女の目尻へ浮かんだ涙をそっと拭っていた。
「ありがとう、アンナ。俺のために、そんなに怒ってくれて。でも……続き「は俺に言わせて」
ルカリオはハンカチをアンナの手へ握らせる。
アンナはまだ言い足りなかったが、彼の穏やかな顔を見てこくりと頷くと、ルカリオは父親へ向き直った。
その瞬間、浮かんでいた柔らかさが消える。
「アンナの言うとおりです。俺はもう、あなたたちの都合で動くつもりはありません」
「あの時は仕方がなかったのだ。お前も、いつまでも昔のことへこだわるな」
「そちらにとっては昔の話でも、俺にとっては違います。それに、たとえ何もなかったとしても、戻る気はありません」
ルカリオは、きっぱりと言い切った。
「俺は正式な手続きを経て籍を抜いて、継承権も放棄しました。今の俺の家は、ここだけです」
「紙の上で縁を切ったところで、血のつながりまで消えるものか!」
ガルナシア伯爵が机を叩くと、声を荒らげる。
その言葉に便乗するように、サリバン子爵も身を乗り出した。
「アンナ、お前もだ。我々がお前を育ててやった恩を忘れたのか!」
「忘れてはおりません」
アンナは、手の中にあるルカリオのハンカチを握り締めながら答えた。
勉強しか取り柄がないと言われ、必死に努力した日々。
どれほど頑張っても認めてもらえず、最後には金と引き換えに厄介払いされたこと。
それらは忘れたくても、忘れられるはずがない記憶だ。
「だからこそ、申し上げます。私は、皆様を援助するつもりはありません」
「何だと?」
「私が管理している資金は、困窮している子どもたちや、働く場所を必要としている人々のためにあります。皆様の借金や、失った地位を取り戻すために使うことはできません。もちろん、ダニエル様やアンソニー様へ両家の信用を取り戻すための口添えをするつもりもありません」
「だが、家族がこれほど困っているのだぞ!」
「皆様が今の状況に置かれているのは、誰かに陥れられたからではありません。ご自分たちでしたことの結果です。でしたら、その結果には、ご自分たちで責任を持ってください。私からお話しすることは、もう何もありません。お引き取りください」
そこまで言い切ったあと、アンナは話は終わりだと示すように、椅子から立ち上がる・隣にいたルカリオも続いて立ち上がる。
「出口はあちらです」
はっきりと拒絶され、二人の当主の表情から、取り繕っていた余裕が消えた。
「ふざけるな!」
サリバン子爵が椅子を後ろへ倒しそうな勢いで立ち上がり、机を回ってアンナへ迫ってくる。
「親に向かって、何という態度だ!」
その顔は怒りで赤く染まり、アンナへ怒鳴りつける。
同時にガルナシア伯爵も立ち上がり、今にもルカリオの腕を掴もうとするように、片手が伸びた。
「お前たちは、どこまで親を愚弄すれば気が済むのだ!」
けれど、その手がルカリオに届くことはなかった。
すぐにニコラスが二人の間へ割って入り、その腕遮る。
そしてほぼ同時に、重く低い声が応接室へ響き渡った。
「帰りなさい」
それまで黙って話を聞いていたダニエルが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
動作こそ穏やかだったが、普段の柔らかな表情は完全に消えている。
その目に浮かんでいるのは、アンナも滅多に見たことのないほどの激しい怒りだった。
「この二人は、すでに自分の意思を伝えた。それでもなお言葉を聞かず、無理やり従わせようというのなら、私も黙ってはおれん」
「しかし、これは我々家族の問題で――」
「今のアンナとルカリオの家族は、私と、この屋敷でともに暮らす者たちだ」
その途端、アンナの胸が熱くなった。
先ほどサリバン子爵が口にした「家族」という言葉には、嫌悪しか感じなかった。
けれどダニエルが同じ言葉を口にすると、不思議なほど温かく、体の奥深くまで染み込んでくる。
ダニエルはニコラスの隣まで歩み出ると、アンナとルカリオを守るように、二人の当主の前へ立った。
「まるで道具のようにしか扱わんお前たちに、私の大切な二人を渡すつもりはない。よいか。これ以上、私の家族に接触することは許さない。次に同じことをすれば、相応の対応を取る」
ダニエルは鋭い視線を二人へ向けたまま、さらに続けた。
「私がすでに引退した身だからと、侮るなよ。次にこの二人へ手を出せば、私だけでなくアンソニーも黙ってはおらん。お前たちが誰を敵に回そうとしているのか、ゆめゆめ忘れるな」
それが単なる脅しではないことは、二人の当主も理解しているはずだ。
ダニエルが長い年月をかけて築いた人脈と信用に加え、前国王であるアンソニーまで敵に回せば、今度こそ両家は完全に立ち行かなくなるだろう。
ようやく事態の重大さを理解したのか、二人の顔から一気に血の気が引き、言い返すこともできずにその場で固まっている。
そんな二人の様子を確認すると、ダニエルは一転して、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
しかし今の二人にとっては、その笑顔の方が、怒りを向けられるよりもよほど恐ろしく見えただろう。
「ニコラス。もうお帰りのようだ。玄関までお送りしなさい」
「承知いたしました」
ニコラスと護衛たちに促され、青ざめた顔のまま、何度もダニエルの様子を窺いながら、二人は逃げるように応接室をあとにした。
扉が閉まり、彼らの声が聞こえなくなると、応接室へ静けさが戻る。
そんな中、ルカリオは腕を組み、そっぽを向いたままぽつりと呟く。
「……俺、もう子どもじゃないし。あれくらい、一人でどうにかできましたけど」
「分かっておるよ」
ダニエルは微笑みながら、ルカリオとアンナの頭を撫でる。
「だが、家族が目の前で傷つけられそうになっているのに、黙って見ていることはできん。いくつになろうと、それは変わらんよ」
「…………そうですか」
ぶっきらぼうに答えながらも、ルカリオの目元はわずかに緩んでいた。
家族だと言われたことが、嬉しかったのだろう。
アンナにも、その気持ちは痛いほどよく分かった。
血がつながっているかどうかなど、ダニエルにとっては重要ではない。
互いを大切に思い、守りたいと願うこと――それこそが、彼にとっての家族なのだ。
同時にアンナは、自分がダニエルから受け継ごうとしているものが、事業だけではないことを悟った。
この屋敷も、ここで生きる者たちも、彼が長い年月をかけて守ってきた居場所のすべてを、いつかアンナが引き継ぐのだ。
そう思いながらダニエルへ目を向けた時、アンナはあることに気づいた。
先ほどは誰よりも大きく、頼もしく見えたその背中が、椅子へ戻る時には、わずかに丸まっていた。
ダニエルは肘掛けへ手を置き、以前よりもゆっくりと腰を下ろす。
……その動作を見た瞬間、アンナの心が泣きそうなほどに痛んだ。
ダニエルは、出会った頃よりも確実に老いていた。
最近は食事の量は減り、夜更かしをすることもかなり減っている。
分かっていたことだ。
それでも、目の前へ突きつけられるたび、考えたくないという気持ちが湧き上がる。
けれど、これは目を逸らしてはならない現実でもあった。
「ダニエル様」
アンナは彼のそばへ歩み寄り、腕を差し出した。
「せっかく時間もありますし、中庭のお散歩でもしませんか?」
「急にどうした?」
「少し、外の空気を吸いたくなっただけです」
ダニエルはアンナの顔を見つめたあと、その心中を察したように目尻を下げた。
「……そうか。では、付き合ってもらおうかな」
すると、それまで二人の様子を見ていたルカリオも、慌てて口を開いた。
「俺も行きます!」
そんなルカリオへ、ダニエルは一瞬目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「もちろんだとも。では、三人で行くとしようか」
この屋敷へ来たばかりの頃は、ダニエルがアンナを支えてくれた。
これから先は、自分が彼を支えていく。
そしてきっと、反対側に並んだルカリオも、同じ気持ちなのだろう。
アンナはその思いを言葉にはせず、隣を歩くダニエルの歩幅に合わせながら、その腕をいつもより少しだけ強く支えた。




