中篇
王女シェリスが嫁いだ相手は、古くから祖国と同盟を結んでいる国の、王家の流れを汲む公爵家の跡取り息子だった。
幼い頃からの婚約者と言っても、国を隔てているせいで、実際に顔を合わせた回数は両手の指に足りない程度。どれほど密に便りを送り合っていても、年単位でしか会えない相手との将来に不安がないわけない。
それでも弱気を見せないよう気丈に振る舞って旅立ったシェリスの侍女として、アイリスは異国の地を踏んだ。
幸いにもシェリスと夫となる男との仲は良好で、移住して一年後に執り行われた盛大な結婚式では、祝いに駆けつけた父王と王妃も二人の睦まじさに安堵の表情を見せていた。
しかし、彼女の仕事はそこからが始まり。
無事祖国と嫁ぎ先の縁を結んだ元王女の本来の仕事は、その縁を次代へ繋ぐこと。二つの王家の血を継ぐ子を成してやっと、シェリスは王女として国の架け橋の役目をしっかり果たしたと見なされる。
目に見えない重圧に潰されないよう堪え立つシェリスを支えるためなら、アイリスは何でもするつもりだった。
そんなアイリスにシェリスが望んだのは、自身の侍女としての役目ではなく、従姉妹として友人として、女として、将来生まれてくる子を共に育てること。
乳母として、第二の母として、我が子を愛してほしいと願われて、応えないわけがない。……だが、慣例として乳母は既婚女性、特に経産婦であることが望ましい。
「それで私は、旦那様の幼友達で親友の、護衛騎士の方と結婚することになったの」
職務上の接点はあったので、まったく知らない相手ではなかった。どうやら以前からアイリスを憎からず思っていてくれたそうで、改めての顔合わせの後、何度かデートをして、主人の後押しもありトントン拍子に話が纏まった。
正直、アイリスには愛も恋もない結婚だった。
しかし、共に次期公爵夫妻に仕えるもの同士。今恋情はなくとも、戦友のような信頼関係を築いて、いつか愛情を抱ければ良いと思っていた。
だが、同僚としては上手く関係を築けても、男女の仲、特に夫婦となれば話はまた別。
「お互いに職務に誇りを持っていすぎて譲り合うことが出来なかったのが、悪かったのでしょうね」
互いに主人のある仕事。なかなか個人の都合がつきにくく、新婚と言われる時期からもう、約束が予定通りに進まないことも多かった。
でもそんなことは判っていて選んだ相手。何度約束がなくなっても、アイリスが相手を詰ったことはない。
当時は、仕事が理由ならば夫のどんな行動も頷いて送り出すのが当たり前だと思っていたし、同時に、自分にも同じ行動が許されると思っていた。
「歩み寄りが足りなかったのだと思う、お互いにね。……なのに、その責任のすべてを、女であるという理由で、夫や旦那様は私やシェリスに押しつけた」
夫が仕事で現れなかった夕食の約束の仕切り直しの約束を、シェリスの体調不良で断ったとき、アイリスに罪悪感はなかった。
大変ね。でも頑張って。
笑って送り出した自分と同じ気持ちが返ってくると無条件に信じていた。
なのに……後日公子から、アイリスが、ひいてはシェリスも責められた。
アイリスには、夫がアイリスのためにわざわざ時間を空けて待っていたのにすっぽかすなんて酷い妻だ、と。
シェリスには、夫婦の約束を知っていたのに、自分の都合で侍女を引き留めるなんて主人としての気遣いが足りない、と。
そんな風に責められて、驚くばかりのシェリスを絶対に謝らせたくなかったアイリスは、その場は全部自分が悪かったとただ頭を下げて謝罪した。
……けれど怒りはあった。
夫だって同じことをしているのに、どうして私にだけ?
旦那様も急に夫を引き留めて、約束を駄目にしたことが何度もあったじゃない。
同じことでしょう?
シェリスの体調不良は貴方にとっても大事でしょうに、なのに……どうして夫だけを庇うの?
そんな齟齬を繰り返しているうちに、夫は歩み寄ろうとしているのに、アイリスが夫を無碍にしていると言われるようになった。噂を知って気を遣ったシェリスから、もっと家にいられるように仕事を制限してはどうかと提案され、悔しかったが受け入れた。
でも……そのころには、肝心の夫は仕事を理由に家に寄りつかなくなっていた。
「今更いい妻のフリをしても無駄だなんて他人から言われて……あの頃は、訳の判らない悪循環の焦燥感でどうにかなりそうだったわ」
そんなころシェリスの妊娠が発覚。
喜んだのも束の間、続けてアイリスの夫の浮気が発覚した。しかも相手は既に彼の子を孕んでいて……どうやら途中から、仕事仕事と家を空けていた時間の大半は、その女との逢瀬に割かれていたらしい。
明らかな不貞行為だった。
しかし、アイリスが夫を責める前に、彼は主人である公子を伴ってやってきて、衆人環視の中、原因はすべてアイリスにあると断じた。
曰く、アイリスが至らないから、余所に安らぎを求めただけ。こうなったのは仕方のないことだった、と。
親友に同意する主人の態度を受けて、屋敷のものが皆アイリスの敵になった。
味方はシェリスだけ。
当然それはシェリス夫婦の仲にも亀裂を生んだ。夫婦どちらもが互いの側近が被害者だと譲らず、二人の仲は一時とてつもなく険悪となった。
そんな状況が胎教に良いはずがない。
やっと授かった念願の子ども。
シェリスの使命の重さを知っているからこそ、アイリスにはその状況が耐えられなかった。
「一生を捧げるつもりだったシェリスのそばを離れるのは辛かったけど……このままでは私の存在がシェリスの結婚生活に悪影響を与えてしまう。だから私は、離婚して一人で国へ帰ることにしたの」
「それじゃ泣き寝入りじゃないかっ」
「だって、そうしなきゃシェリスの立場を守れなかった! 私は、彼と離婚すればもう二度と顔を見ることもない場所へいくこともできる。でもシェリスは違う! シェリスには、何があっても離婚なんて許されない……判るでしょう?」
冷静に話せたのはそこまで。
声を荒げて顔を上げた時、アイリスの緑の目は溺れそうな涙に潤んで。
あのときの悔しさを思い出して唇を噛むと、勝手に雫が頬を伝い落ちた。
国の架け橋となるのが王女の勤め。
そのための婚姻が、個人の好悪の感情で簡単に終えられるはずもない。
あの国で、家で、夫と険悪になって不幸になるのは、ただシェリスなのだ。
シェリスの立場を守るためには、禍根を残さないようアイリスが姿を消すしかなかった。
話しているうちにどんどん蘇ってきた当時の辛さ、悔しさ、何より悲しさ。すべてが籠もった涙を流しながら、気づいたら呟いていた。
「ケイン、私、陽だまりを失ってしまったの……」
声にした途端、それまで以上に激しい痛みが喉の奥からこみ上げてきて、零れる涙が止まらなくなった。両手で顔を覆って、それでも話し続けた。
「シェリスは、私の目を、陽だまりの緑だって、言ってくれた。でも、シェリスこそ、ずっと私の陽だまりで……シェリスがいたから私、頑張ってこれた……」
「アイリス……」
「本当は、ずっとシェリスといたかった……シェリスの赤ちゃんに会いたかった、お世話をしたかった……でも、もう会えない、元気かどうかも、私は知らない……。私、私は、この国を出たら、家族と離れたら、幸せになれるって信じてた。シェリスのそばなら絶対幸せになれるって思ってたのに……、結局こんなことになって」
涙に声を詰まらせながら思いつくままの感情を綴る。
泣き言など、国を出る前も戻った後も、誰にも言ったことはなかった。
シェリスにも聞かせたことはない。
でも、ケインには言えた。
「ごめんなさい、ケイン、偉そうなことを言って、私こそ、十年前のまま、私は、何も変えられなかった。貴方はちゃんと、想いもキャサリン様も守ったのに、私は、わたしは、何も、シェリスも守れなかった」
「アイリスっ」
泣いて喋って上手く息が吸えない身体を助けるように、隣に移動してきたケインに肩を掴まれ、身を起こされた。ひっくひっくと泣きながら、涙でぼやける親友の方を向く。
焦点も定められないまま、短い呼吸を繰り返し声を絞り出した。
「だから、貴方にも連絡できなかった……。恥ずかしかった。ずっと助けてもらって、あの日、良かったって言ってくれた貴方に、合わせる顔がなくて……。ごめんなさい、ごめんなさい、ケイン。私、国を出ても、どこに行っても、全然、上手くやれなくて、幸せになれなくて……、誰も幸せにできなくて……夢の一つも守れなくて、本当に、情けない……」
ケインは取り出したハンカチで、止めどなく落ちる涙を必死で拭う。しかし拭いても拭いても限りがなく、涙を零すのと同じ速度で必死に謝るアイリスが哀れで……。
どうしようもなくなったケインは、もうなりふり構わず力一杯アイリスを抱きしめた。
ぎゅっと腕の中に閉じ込めた身体は、想像以上に小さく……すっぽりと腕の中に収まってしまう細さに少し驚いた。こんなに華奢な女性だったのだと今更思い知って、儚さに唇を噛む。
小さな身体から絞り出される切ない泣き声をどうにか止めたくて、抱きしめた背中をさすり、しっかり編み込まれた彼女の髪が乱れるのも構わずに、肩に押しつけらた頭に頬ずりした。
それは、ケインが唯一知っている女を泣き止ませる方法。
昔、泣いているキャサリンのこともよくこうして宥めた。抱きしめて暖めて背中をさすっていたら、キャサリンはいつの間にか泣き止んでいた。
子どものキャサリンにしていたのと同じ対処で大人のアイリスを泣き止ませられる確信はなかったけれど、女に疎いケインは、これ以外の方法を知らない。
でも、ただもう、アイリスの胸が裂けるような泣き声を聞いていたくなかった。
いつでも強くて、いつまでも優しかった彼女が、こんなに傷ついて……傷を抱えたまま生きてきた時間を知らずにいたことが辛くて、申し訳なくて。
ケインは勝手に、彼女は異国で幸せになっているのだと信じていた。
祖国から、冷たい家族から離れ、夢を叶えた望んだ場所で、素のままの可愛い笑顔を浮かべて、笑って生きていると無条件に思っていた。
まさかこんな近く、泣くことも堪えて。激しい後悔を抱えたまま、歯を食いしばって生きていたなんて知らなかった。
震える背中を抱き語りかける。
「アイリス、オレには謝らなくていい。オレはお前の存在に何度も救われた、それは嘘じゃない。シェリス殿下を守り切れなかった後悔は仕方ない。でもそれ以外、アイリスは何も悪くない、シェリス殿下以外、誰にも何も謝らなくていいんだ」
「でも……、私がもっと、上手くやっていたら……今も、ちゃんとシェリスを支えられた……わたしが、もっと」
「……そうやって無理してそばにいても、シェリス殿下は喜ばなかったんじゃないか?」
ひくりと抱きしめた身体が痙攣した。
「シェリス殿下は、お前の我慢の上に成り立つ献身を、黙って受け入れるような方か?」
言葉の後、しばらく泣き声が途絶えた。
やがて抱きしめてから初めて抵抗され……緩めた腕の中、アイリスが泣いて赤くなった顔を上げる。目も鼻も頬も真っ赤にして、呆けたようにケインを見上げたアイリスは、やがて激しく頭を振って否定した。
「いいえ、いいえっ……シェリスは……きっと、気づいて、私を」
「そうだろう。そういう方だから、アイリスは生涯を捧げた。そもそも覚悟の重みが違うんだ、浮気夫と、それを庇うようなくだらない主人とじゃ。最初から同列じゃない。だから合わなかったんだ。アイリスの努力が足りなかったからじゃない。お前が何をしてもしなくても、……きっと、昔と同じように結果は変わらなかった」
昔……親の愛を求めて、我が身を責めて、努力したあの頃。
でも愛されなかった原因は、アイリスじゃなかった。
彼らはアイリスがどう在っても、愛してはくれなかった。
夫も同じ。アイリスがどうしていようと、結局彼はまた別の理由で、別の女を選んだだろう。
ケインの言葉を飲み込んで、またアイリスの目に涙が浮かぶ。瞼を閉じれば次々と雫が目尻から溢れた。
「どうしても、私は……、きっと、そういう運命なのね……私は」
どうやっても、欲しいものは得られない。
最終的に幸せにはなれない。
きっと、そういう……。
諦めて俯きそうになった顔を、拘束を解いたケインの両手が掴む。両手のひらで優しく、濡れた頬を挟んで俯けないようにして、言った。
「違う、アイリス。オレはアイリスが戻ってきてくれて嬉しい、また会えて良かった。……ずっと会いたかった」
「……ケイン?」
「それが仕組まれた運命だっていうなら、お前はオレとまた出会うために戻されたんだ」
未婚の男女ではあり得ない近さで見つめ合うケインの双眸の美しい黒さに改めて気づいて……アイリスの頬が、涙のせいでなく赤く染まった。




