前篇
先触れなくやってきた妹が連れてきた女性を見たとき、息が止まるかと思った。
別れた頃好んでいたのと変わらない詰め襟の深緑のドレスを纏って、静かに立っていたのは、十年近く会うことのなかった親友。
「アイリスっ……」
彼女の佇まいが余りに昔と変わらなかったから、思わずかつての親しさで声をかけてしまった。声を聞きつけ、こちらを振り返って微笑んだ彼女は、十年という時間を飛び越える程に……あの日から変わらなかった。
「お久しぶり、ケイン」
階段を駆け下りて近寄り、全身を上から下まで舐めるように見て、確かにここにあのアイリスがいると自覚して、息が荒くなる。
あまりにも思いがけない再会で言葉が出なかった。
ただ目を見開いて震えるだけのケインの腕を、すっかりその存在を忘れていた妹が引いてやっと正気に返る。
「お兄様、しっかり!」
「あ、あぁ……すまない」
「驚きますわよね、私も本当に驚いてしまって……とにかくお兄様にお伝えしなければと無理を言ってお連れしましたの」
本当に無理矢理でしたわね、と淑女の顔で笑ったアイリスは、改めてケインと視線を合わせるとそっとスカートを摘まみ見事な淑女の礼で頭を下げた。
「失礼しました。大変ご無沙汰しております、メイフィール伯爵。お元気そうで何よりです」
「あ、いや、そういうのはいいから。誰か部屋ともてなしの用意を……キャサリンも一緒に」
「いえ、私は馬車を待たせていますから、家に戻ります。後はお兄様たちだけで。アイリス様、お仕事のお話はまた後日連絡します。それでは皆様ごきげんよう」
引き留める間もなく言いたいことだけ言って去ったキャサリンに置き去りにされ、最初に言葉を発したのはアイリスだった。
「相変わらずねぇ、キャサリン様は……」
大人になっても、人妻になっても、母親になっても、以前と変わらない家族に、ケインに対する率直な、ある意味不躾な態度。呆れのこもった声音に、慌ててケインが取り繕った。
「あれでも社交界では結構しっかり者の夫人と言われてるんだ。ただ、オレ相手だとどうしても、な?」
「だから変わらないと言ってるんでしょ」
あの頃のように厳めしい顔でぴしゃりと言われて、思わずケインの身が竦んだ。
その様を互いに自覚し、直後二人は同時に破顔した。
最後に会った日から十余年。
ただの一度も会っていないどころか、便りのやりとりすらしていなかったのに……時間の隔たりをまるで感じない会話がおかしかった。
さっきは息が止まるほど驚いた。しかし今はもう、まるで別れたのが昨日であったかのように自然に、互いがこの場にいることを受け入れている。
だからアイリスにかつてと変わらない声音で、折角だからお茶はいただいていくわ、と言われてすぐ、ケインはエスコートの手を差し出した。
あの日と同じ応接間は十年余の間に少し家具に変化があり、すべてがあの日のままというわけではなかったが、それでも真正面に座る存在そのものが、意識を過去に引き戻す。
最後の日と同じように向かい合って座って紅茶を啜り、改めてお互いを見て、先に切り出したのはケインだった。
「それで、一体何がどうなってキャサリンと会ったんだ?」
「私今、貴族学院入学前のご令嬢専門の家庭教師をしているの。もうすぐ契約が終わる子爵家の奥様が、次の仕事を紹介してくれるというから行ってみたら……」
現れたのが、姪の家庭教師を探していたキャサリンだったという。
異国に渡った兄の元恋人の顔を未だ忘れていなかった妹は、もういないはずの人間が現れた事実に驚きながらも、即座にアイリスを馬車に押し込み実家へやってきたそうだ。
「多分私の事情は子爵夫人から聞いていたんでしょうね。馬車で二人きりの間も何も聞かれなかったわ。代わりに貴方のことを」
「……なんて?」
「お兄様は今もアイリス様を想って一人でいらっしゃいます、ですってよ」
あぁ……頭を抱えて俯いた親友を見遣ったアイリスは、淑女らしくなく肘掛けに肘をつき、そっぽを向いて呟いた。
「言い訳にしろとは言ったけど、まさか十年以上もとは思わなかったわ」
「……すまない」
「本当に、しようのない男ねぇ。相手はもう人妻どころか母親よ。もういいんじゃないの?」
「いや、その辺は確かにもういいとオレも思えるようになってきたんだが……当のキャサリンがなぁ」
「キャサリン様が何?」
「結婚した後キャサリンが、跡取りは何人でも自分が生むから、傷心のオレに結婚を強要するなと両親に迫っていたらしい」
「……それ、乗っ取りじゃない」
思わずといった具合に呟いたアイリスの言葉には苦笑するしかない。
書類上キャサリンはメイフィール伯爵の娘だが、実際は違う。血統という意味では、キャサリンの子では跡継ぎになり得ない。
でも、彼女はそんなこと知らない。
知らないからこその善意の申し出。真実を言えない伯爵夫妻は、娘の善意を強く拒否するができなかった。
そうこうしているうちに前伯爵が病を得て、静養を必要としたために、予定より早く、未婚のケインに伯爵位を譲ることになってしまった。
「正直、急に爵位を継ぐことになって思った以上に多忙でな。自力での社交もままならなかったから結婚しようと思ったこともあったんだが、やはりあまり積極的になれなくて……そうこうしている間に十年経っていた」
想いを思い出に変えるのに思いの外長い時間がかかった……と笑えば、目の前のアイリスは苦虫を十匹ほど噛み殺したような顔で額に手を当てた。
「本っ当に馬鹿じゃない? もっとちゃんと焦りなさいよ。貴方、当主になったのでしょ? 自分がいくつか判ってる? 貴方の肩には今家のすべてがかかってるのよ? 何暢気にしてるの、家を守るのが貴方の仕事じゃない」
そのために妻を迎えて子を成して務めを果たせ、とこの十年誰にも言われなかったことをはっきり言われて、妙に新鮮な気分になった。両親はさておいて、これまで誰もケインにそれを強要しなかった理由に責められるのは変な気分だ。
ケインが結婚を急かされなかった理由。
キャサリンの配慮以上に強くあったのは、学生時代の手痛い失恋の噂だった。
六年も想い合った相手に捨てられたのだ、すぐに立ち直れるわけがない。きっと時間が解決する、ゆっくり見守ろうという風潮がケインの周囲にはずっとあった。
中には自分なら癒やせると気負ってくる女性もいたが、結局ケインの中に強固に居座る女の影を厭い、二番手の女になる気はないと去って行った。
……それはそうだろう。
実際の想い人は数年前に異国に旅立った女ではなく、すぐそばで息をしている、何をしてもしなくてもケインに関わってくる家族の女なのだ。想いの影が消えるわけない。
そんなケインに見切りをつけた最後の婚約者候補の女性は去り際に言った。
『ケイン様、それほど過去が恋しいのなら、どうかもう一生それを貫く覚悟を持ってくださいませ。そうすれば叶わぬ想い身を焦がす、貴方のような不幸な方は生まれませんもの』
どうぞアイリス様とお幸せに……と、最後を強烈な皮肉で締め括ってケインを見限った女性は、すぐに別の貴族に嫁いで子を成し、逃した魚は大きかったと両親が嘆いていた。
そんな状態になってやっと焦っても、結局ケインはすぐには変われなかった。
キャサリンの影を引きずり、アイリスの名前に守られて……。
やがて、想いに一生を捧げている男と社交界で噂されるようになったケインと無理に縁を結ぼうとする家はなくなった。
「まあ、最悪跡継ぎにはキャサリンの子をもらえばいいから」
「だからそれは」
「駄目だなんて誰も言えないだろ?」
だってオレたちは公的に血の繋がった兄妹なんだから。
言外に匂わされたものを悟り、アイリスの顔が益々歪む。
「……まさか復讐のつもり?」
一つの真実を隠した代償に、メイフィール家は正しい血統を失おうとしている。
万が一、いつかその事実が発覚したとして、ケイン自身が知らぬ存ぜぬを貫き通せば結局、ただ巡り合わせが悪かっただけの不幸な事故として処理される可能性が高い。
貴族的な理由で、他人を兄妹と偽った故に偶然起きた事故。
でもケインは知っていて、そういう事態を引き起こそうとしている。それを復讐と言わずしてなんという?
「ホントに、復讐なんかじゃないんだ。偶然こうなった」
嘘だ。
ギロリと睨まれて肩を竦めたケインは、まあちょっと両親に意地悪したい気はあったけど……と軽く訂正する。
「血統の偽装は意地悪ではすまないわ」
「大丈夫だ、父上たちも簡単にばれるような偽装はしてない。書類も証言も完璧だった。関わった誰かが漏らさない限り絶対ばれない」
「家が危ないと知れば声を上げる方もいるでしょう。……まさか、それが狙い? 今更……あれほど守りたい壊せないと言っていたくせに、ここまで来てすべてを暴く気なの?」
本当に馬鹿じゃない! 叫ばれた語尾に被るように、否定した。
「まさか!! 今更そんなことをしようとするものがいたら全力でオレが潰す!」
「じゃあどういう……」
「本当に、もう自分じゃどうしようもなくて……最悪、キャサリンの子どもに後を継がせればいいと思ってるだけなんだよ」
はあと大きく溜息をついたケインは前屈みになって、膝に肘をついて疲れた顔を隠し語った。
最後の婚約者候補が去ってから既に片手の指以上の年数が経った。
今や社交界でケインは、悲恋の象徴、愛の美談の権化であり、恋に恋する少女から老齢の貴婦人まで、すべての貴族女性から理想の恋人像として崇拝のまなざしを向けられている。
ケインを夫や婚約者にはしたくないが、夫や恋人がそうであってほしい理想の形がケインなのだ。
「そんなオレに嫁ぎたい女などいるものか」
「……そういう現状はちゃんと自覚してるのね。なら、それこそお家のためと言えば」
「それこそ忌避されるだろう。家のために犠牲になれなんて」
「でも愛するつもりはあるのでしょう?」
「今更そんな言葉誰が信じる……」
じっとりした目で見つめると、アイリスもまた大きく溜息をついた。
「全部自業自得じゃない」
「判ってる。一応今も相手を探してはいるんだが……なかなかな。だから、最悪キャサリンの子を跡継ぎにして、その子の相手にメイフィールの傍流の子を指名するつもりだ」
次代に責任を負わせるのは心苦しいけれど……と吐き出せば、ハッと鼻で笑われた。
「財産狙いでもなんでも贅沢を言わなければ女なんていくらでもいるでしょうに」
「そんな危険物を判っていて家に入れられるか。そもそも子どもを産んでもらうために妻を探してるんじゃない。妻として迎えたいから、相手を探してるんだ」
目的と手段が入れ替わっては意味がないと本気で怒ると、緑の目が吃驚したように瞬いた。直後に瞳を細めたアイリスは、失礼にも、心底面白そうに笑いだした。
それは、ずっとずっと昔、可愛いと思ったことがある笑顔と変わりなく。
ケインの胸の奥のどこかが、きゅっと予想外の音を立てた。
「そのやる気を十年前に発揮していればねぇ」
「片棒を担いだまま行ったお前に言われたくない」
「勝手に担がせたくせに」
クスクス笑って話す顔はやはり昔と変わらなくて、でも口元を隠す指先の微かな荒れや仕立てはよくとも着古したドレスのくすみは消せない。
無いように感じても確かにある、十年の空白。
ケインの十年は話した。
次はお前の番だろうと窺う目に頷いて、アイリスは少し背筋を伸ばす。
ケインが紅茶で唇を潤して促した。
「それで、そっちの事情は? その様子じゃ、昨日今日帰ってきたわけじゃないんだろ?」
「戻ったのは……五年くらい前かしら」
「そんなに前!?」
思った以上の年数に素直に驚く。
「戻ってきたなら連絡してくれれば……」
「離婚してすごすご帰ってきたのよ。どの面下げて昔の知り合いに会えというの」
「結婚……してたのか」
「ええ、三年ほど」
「そうか。……それで? 一体何があれば、お前が人生を捧げると誓った恩人から離れて帰ってくることになるんだ? たかが離婚だろ?」
たかが離婚……茶化して促す親友を見つめ少し笑って、アイリスは閉じた瞼の裏、遠くなった異国の生活を思い出した。




