後篇
一つの話題の終わりにちょうど飲み物が運ばれてきて、二人は黙る。そのまま静かに、紅茶と菓子が用意されるのを眺めていた。この後は呼ぶまで下がっているように告げると、使用人は扉を開けたまま全員姿を消す。
また二人きりになって、香しい紅茶で唇を湿らせたケインはふと思いついて窓の外へ目を向けた。
あの日見た木の葉はとうに落ちてなくなっている。
けれど、葉はまた芽吹く。ここからでは確認出来ないが、きっともう固い新芽がいくつも生えていることだろう、春に向けて。
そうやって季節は、時は巡っていく。
何度でも、いつまでも……。
同じ速度で、同じ営みで……。
永遠に変わりなく。
束の間、かつての景色に意識を飛ばしていたケインは、アイリスがカップを戻す仕草で我に返った。
「それで、貴方はお変わりなし?」
「ああ」
頷けば、アイリスが小さく溜め息を落とした。
「そう。なら仕方ないわね、私の名前は何年でも好きに使って」
「悪いな」
「もう戻るつもりないもの、なんと言われようと良いわよ別に。……でもね、ケイン」
「ん?」
「さっき貴方が心から私に良かったと言ってくれたのと同じように、私も貴方の、親友の幸せを願ってることを忘れないで」
真っ直ぐ背筋を伸ばして。
まるで挑むように言う彼女は酷く真剣だった。
本気で幸せへ手を伸ばせと唆す顔。
受け止めて……ケインもまた真剣に首を横に振った。
「……やめてくれアイリス」
「でも」
「オレはオレ自身より……愛する人の幸せを願う」
身勝手な幸福はいらない。
望むのはただ、最愛の幸せだけ。
それ以外はいらない。
「知ってるわ。でも私は、私の親友を踏みつけに他人が幸せなるのを許せそうにない……さっき、小母様だけでなくキャサリン様にも会ったの。……軽く、睨まれちゃった」
「それは……」
「判ってる、それは貴方がさせた誤解の所為で、彼女は何も悪くない。彼女にはなんの罪もないことよ。でも……だから許すことが、私には出来ない」
何も知らないことは罪じゃない。
それはキャサリンの罪じゃない。
判っている。
でも……言葉を詰まらせたアイリスも、真実を知っていた。ケインに聞いた。
彼らは実の兄妹ではない。
赤の他人だから、ケインはキャサリンを好きになった。
幼くともただ男女が出会ってただ恋をした。
良くある当たり前の結果だったのに……。
後付けの理由が、彼の初恋の邪魔をした。
そうしなければならなかった実に貴族らしい理由も知っている。
だが……。
ケインという人を知れば知るほど、何故彼だけがこんなに苦しまなければならないのかと思ってしまうのだ。
彼はただ一番身近な異性に恋をしただけ。
本来ならそれは誰に誹られるものでもないはずだ。
だって彼女は他人だと、彼は知っていたのだから。
知っていて好きになったのに、後から好きになってはいけない理由が追いかけてくるなんて誰も思わないだろう?
再婚同士の血の繋がらない連れ子きょうだいの結婚なんて世間では割と良くあることだ。確かに貴族として外聞はあまり良くないけれど、本人たちが真剣なら、余程家に不利益にならない限り、許容される。
けれどケインの場合は、家と伯爵夫人の名誉を守るため、その事実は決して暴いてはならない。
彼と彼女は、事実はどうであれ、絶対に兄妹でなければならない。
だから、彼女は何も知らない。知らずに、ただ無限の愛に守られて、一人幸せになる。
……それが許せない。
お門違いの感情だとアイリスも判っている。
キャサリンが何も知らないのは彼女を守るためだ。
何よりも守るべきものを手に入れるために真実を知らせて傷つける? それこそ本末転倒だ。そんなことをしても誰も幸せになれない。
だから、出来ない、しないとケインは言う。
では、貴方の想いは? 幸せは?
貴方がずっとずっと大切に育ててきた想いはどこに行くの?
「私は、貴方の、幸せを、願うのが、やめられない」
高ぶる感情に目頭が熱くなって鼻の奥がツンとして、言葉が細切れになった。涙の予感につい顔を俯ける。
「……アイリス、本当にオレは今充分幸せなんだ。そもそも、お前とだって、この気持ちがあったおかげで出会えたんだから」
なんでもないように呟くケインの声が、胸を刺し貫く。
涙を見せないよう更に深く顔を俯けるアイリスには見えないと判っていて、ケインは首を横に振った。
「お前の気持ちは嬉しい。でも本当に今のオレには、あの子の幸せが、それだけが、大切なんだ。オレ自身のことよりも……」
ごめんな……でもありがとうと、と穏やかに言う男の顔を上目遣いについ睨んでしまうのは、言っても詮無いことまた蒸し返してしまった自分の暴走が恥ずかしかったから。
彼の愛はひたすらに真っ直ぐで、見返りなど一切求めていないもの。
そんなに純粋に、一心に愛されるキャサリンが羨ましくて……妬ましくて……。
こんなに情熱的な愛を、ただの肉親の情だと当たり前に受けられるくらい恵まれて育った彼女が、アイリスは実は嫌いだ。
ケインに愛されて守られて、真綿で包まれるように甘やかされていることを当然と受け止めて、彼に何も返さないどころか、あっさり捨てようとしている彼女が、昔から、本当に嫌いなのだ。
アイリスの家族は、ケインたちとは違って全員が間違いなく血の繋がった家族なのに、アイリスにだけ冷たかった。
いっそ自分が養子であるとかの事情があった方が救われる。だから、一縷の望みをかけて真実を知りたいと母に問いかけたことがあった。
結果アイリスに与えられたのは、唇が裂けるほど強烈な平手打ち。
叩かれて呆然とするアイリスに向けて、母は怒りに震えた目を見開いて言い切った。
『変なこと言わないで!! 間違いなくお前は旦那様と私の子よ!!』
実子だとはっきり宣言されたが故に絶望したなんて、彼女は知らないだろう。
いっそ他人であれば許せたのに……間違いなく血縁があると言われたから、すべてを諦めた。
そうやってアイリスは家族を切り捨てた。
両親が兄妹しか愛さないなら、私も貴方たちに向ける愛は捨てる。
私のことは私が幸せにする。
幸せになるために、アイリスは家族に蟠る<想い>をすべて捨てて、シェリスと王妃の手をとることを決めた。
そんな頃だった、メイフィール家の異母兄妹の噂を聞いたのは。
彼らは異母兄妹なのにとても仲睦まじいと聞いて興味を持った。
長年、実妹すら大事にしない兄を見てきた。なのに、半分他人の異母妹に優しい兄など本当に存在するの?
そんな意地悪い興味を抱いて、アイリスは招かれた同派閥の子どもばかりのお茶会で、わざわざ二人の姿を探した。
見つけた二人は確かに仲よさそうに見えた。
社交に勤しむ母親の手を煩わせないようになのか、ケインは会の間中、片時もキャサリンのそばを離れずに世話を焼いていて。その姿を見た大人たちは、本当に仲の良いこと……と、かいがいしい異母兄と、淑女を真似て失敗しては兄を困らせる異母妹のやりとりを微笑ましく見守っていた。
自分と兄とも、また、妹と兄とも、全然違う兄妹の在り方がそこにはあった。
妹の粗相をケインは決して責めない。口では妹の行動を窘めながらも、結局は彼女のすべてを受け入れ許し、寧ろ仕方ないなぁと呆れる顔には、無条件に頼られることを喜んでいる色さえあり。眺めている間中、ケインからは絶えず、妹が愛しくて堪らないという感情が滲み出ていた。
世間にはあんな兄もいるのだと、ひたすら大切にされるキャサリンに羨望を抱きながらケインを眺めたのが、すべての始まり。
それからも二人のことが、否、ケインが気になって……二人と出会う度、それとなく様子を窺うのがやめられなかった。
そして、最初の出会いから、何度目の邂逅の時だったろうか?
馴染みになった子どもたちを集めたいつものお茶会の席で、少し成長したキャサリンは自分だけの友達を見つけると、あっさり兄の手を振り解き、自分の意思で兄を置き去りにそちらの輪へ駆けていった。
その瞬間のケインの表情、今もしっかりアイリスの胸に焼き付いている。
一瞬、傷ついた顔をしたケインは、離れていった手の感触を惜しみ、咄嗟に捉えようとして、でも寸前で踏みとどまって、直後泣き出しそうに頼りない表情をした。
そのまま、自分のいない場所で変わらず楽しそうに笑うキャサリンを見て途方に暮れた顔をして、やがて彼は酷く淋しそうに……諦めを唇に乗せて、静かに笑った。
たったそれだけのことだった。
なのに……どうしてそんな結論に思い至ったのかはアイリス自身にもよく判らない。
ただ、納得した。
ああ、ケインはキャサリンが好きなのだ、と。
ケインの、兄というにはあまりにも甘く優しい、言葉は、態度は、表情は。
すべて、女を守る男のものなのだ、と。
もちろん思い浮かんだ答えを最初は否定した。心の中とはいえ、他人に勝手に押しつけるにしてもあまりにも不躾な考えで。
でも、そうだと思えばこれまでのケインのすべての行動に納得がいった。
不自然に愛情深い姿は最初から、<兄>ではなく<ケイン>のもので。
愛は、<妹>ではなく<キャサリン>に向けられていた。
思い至った事実に愕然としたのは一瞬。理解したものに対し、忌まわしいとか、気色悪いといった感情は不思議なほどわかず。
ただ、違和感が解決して納得した。
確かに不道徳なものではある。しかし、積極的に告発し否定しようと思わなかったのは、既にアイリスも大分歪んでいたからかも知れない。
ケインの想いが誰に迷惑をかけているわけでもない。
好きな女を心の中で想うくらい良いじゃないか。
行動を起こしてしまったらそれは非難されるべきものだけれど、あの表情を見る限り彼はそれが罪だとちゃんと知っている。
知っていても捨てられない。
頭で判っていても止められないのが、<想い>というものだろう?
かつて、結果を予想しながらも、両親の<愛>を求めることをやめられなかった私のように……。
頭で考えて、理性で止められるものなら、誰も苦労はしない。
止まらないから、泣いて、苦しんで……。
届かない、得られないと知らしめられても……。
ひたすらに、求めてしまう。
それが、愛や想いというものなのだとアイリスは身に染みて知っていた。
だから、ケインの秘めた想いを知った後は尚更彼の行動を追うことをやめられなくなった。彼の想いの結末をこの目で見たかった。
その結果があの取引。
建前は色々あれど、結局アイリスはケインの想いの結末を間近で見たかっただけなのだ。
彼は、アイリスが想いを暴いた後も変わらず、愛しい女の前では完璧な兄の仮面を被ったまま、ただ彼女を愛し続けた。
……なればこそ。
彼の近くにいるようになって、事情を知って、余計にケインの愛情の深さを知った。
深く深く、誰よりも想うから、一途な愛を肉親の情で隠して、愚かに過保護な兄として振る舞えるその意味が、真実を知っているアイリスには健気で……そして、……哀れで。
つい、唆してしまった。
『想いを伝える気はないの?』
二人でいた時、ふと出来た会話の隙間に差し込んだ言葉。
ぎょっと目を剥いた彼は慌てて周囲を確認して、誰もいないことを確認してから、肩の力を抜いて同時に首を横に振った。
曰く、この想いを叶えるために家族という壁を壊すとき、それに伴う傷を耐えてくれと身勝手に押しつけることは、絶対に出来ない。
きっと誰より多く、キャサリンの苦しむ。
彼女が泣くと思ったら、妄想することすら辛い。
『絶対に泣かせたくない。……好きだから』
好きという言葉を口にする時、ケインはいつも様々な感情を見せた。
喜怒哀楽おおよそすべての感情が、彼女に向ける<好き>というたった一言に乗る。
それほどの感情を向けられていても、キャサリンは何も気付かない。
気付くわけない。彼女にとって彼は、永遠に<兄>であって、それ以外には絶対にならないのだから……。
「……本当に、それでいいの?」
「オレとじゃ、あの子は幸せになれない」
見ているアイリスの方が泣きたくなるほど穏やかな笑顔で、ケインは言い切った。
本当に諦めてしまえるの?
これほど想い、彼女だけを見てきたのに、本当に他人に委ねてしまえる?
本当は自分が取りたいだろう手を他人に渡して、それでキャサリンが幸せになったとして、ケインの幸せは? 本当にこんな結末で納得出来るの?
また目の前がぼやけてくる。それを隠すために顔を俯けた。
「泣くな、アイリス。お前にだけ言うけど、うん、やっぱり好きだよ。誰にも渡したくない……でもオレじゃダメなんだ。幸せにしてやれない。キャスが幸せになれないなら、想いを叶えても意味がない」
言葉を荒げているわけじゃない、特別低い声でしゃべっているわけじゃない、のに……ケインの声からは、キャサリンへの苦しいまでの愛情と、それに反する絶望と諦めが切実に伝わる。
「だけどな……、少しだけ」
そこで初めてケインは言葉を詰まらせた。
「もっと早く言えば良かったって思うようになった。空気なんて読まずに、無邪気を装えてた頃に、全部覚えてる、オレは全部知ってるって、もっと早く言ってれば……、何か変わってたかも知れないって」
「……ケイン?」
「そうしてれば、もっと早く、どこかで思い切ることも出来たんじゃないかって……でもオレは結局何もしなかった。なんの根拠もないのに、想い続けていればいつか、どうにか、届いて、両想いになれるかもって信じることをやめられなかったオレが選んだ結果が、今なんだ」
今更振り返って後悔したってどうしようもない。自分は人生にあっただろう分岐すべてで兄として、ただ彼女の幸せを願うだけの存在で居続けることを選んだのだから。
「だから、心配するな」
「ケイン」
「お前の名前をしばらく借りるけど、オレはちゃんと一人でも生きていく。これまで通り」
「……ケイン」
「そうだな……出来るなら、オレもキャスの陽だまりになりたい」
アイリスがさっき言っていた。
木漏れ日の差す森の、冷えきった体も心も暖めてくれる場所。
いつでもキャスを安心させてやれるそんな<陽だまり>でありたい。
兄として……。
いつ諦めると約束も出来ない。
まだ彼女と彼を見れば確かに胸は痛む。
でも、いつか。
想い故の激しい愛ではなく。
陽だまりのような暖かな家族の情で妹の幸せに笑える日が、来るかも知れない。
この呼吸が続く限り……。
そう思えるようになった。
「ずっとありがとう、想いにただ寄り添ってくれたアイリスがいたから……こんな風にも、思えるようになった。本当に、ありがとう」
頭を下げたケインの肩がか細く震え、アイリスも黙って俯いた。
しばらく二人が鼻をすする音だけが静かな空間に響き……やがてアイリスはハンカチで頬を拭うと、そっと一人で立ち上がった。
見たかった想いの行く末を見届けたのだ、これでもう本当に最後。
終わりの時間を自覚して、ケインも立ち上がる。赤くなった目で見つめ合い、互いの醜態に少し笑って、手を差し出した。
美しい手を固く握りしめ合って、至上の親友へはなむけの言葉を……。
「私の方こそ、長い間ありがとう。離れてもいつも貴方の幸せを願ってる。さようなら」
「オレもだ、アイリス。向こうへ行っても元気で、……さよなら」
見送りを断って、アイリスはドレスの裾を翻し颯爽と歩き出す。
後ろは振り返らない。
結局、最後まで兄であることを選んだケインの生き方に納得はいってない。
絶対に届かない場所で、愛した女にただ寄り添うだけの生き方のどこに幸福があるのかアイリスには判らない。
それでも貴方は幸福だと笑う。
だからやっぱり……アイリスはキャサリンが嫌いだ。
これほど想われて、愛されてどうして気付かないの?
あんなに大切に守られて、無限の愛を与えられて、どうしてあっさり捨てられるの?
ケインが<兄>だから愛情を貰うのは当然?
ふざけるな、世の中には、本当の家族からも何も与えてもらえない人間もいるのに!!
あの子だけ、他人なのにただ愛されて、なんの努力もなく、ただ幸せになるなんて……狡い!!
卑屈な思考が捨てられない。
だから……強く強く願った。
これから幸せになりましょう。
彼女よりもずっとずっと。
幸せになりましょうよ。
ねぇケイン。
心の中で親友に語りかけて、アイリスはメイフィール伯爵家を、祖国を後にした。
読んで頂きありがとうございました。
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