後篇
戸惑って揺れる潤んだ緑色の目を真っ直ぐ覗き込めば、想いは勝手に声になった。
「結婚しようアイリス」
「……ケイン?」
「オレならお前を泣かせない、お前を裏切らない、絶対に」
言葉終わり、また息もできないほどの抱擁に包まれたアイリスは、されるがまま引き寄せられ、呆然としたまま問う。
「ケイン、貴方、何言ってるの?」
「オレに妻になってくれ、アイリス」
つま? 妻? 妻って何?
言葉を飲み込もうとして首を傾げ、やがて思い至った結論に、アイリスは慌てて身を捩り始めた。
「いやだ、ごめんなさい。突然泣いたから同情してる? 私なら大丈夫。離婚の時の慰謝料もまだたっぷり残ってるし、仕事もあるから、心配、いらない」
もぞもぞ動いて必死に腕から抜け出そうとする身体を、力を込めて抱き留める。
「ケイン、痛い、離して」
「嫌だ」
「ケイン、お願い」
「答えを先に聞かせろ、そしたら離す」
「……そんな言い方するなら答えは、否よ。お断り」
「アイリス!」
「お願い、一旦離れて。多分、私も貴方も正気じゃない」
「どうして?」
「私たち今日、十年ぶりに会ったのよ? きっと、その興奮のせいで」
「興奮はしてる。たった今、お前の泣き顔に惚れて、すごく興奮してる」
「……は?」
「たった今、泣いてるアイリスを好きになった」
「一体何を……」
言い出すの! と胸に爪を立てて抵抗されて、ぱっと手を解いた。
途端に、アイリスの伸ばした腕の分、二人の身体が離れる。アイリスは力一杯腕を伸ばしたまま、ぎゅっと眉根を寄せて涙の残る目でケインを睨みつけてきた。
そんな顔も存外可愛い。
そんなことも、今知った。
「六年も一緒にいたのに、オレは自分の恋にだけ一生懸命で、アイリスの何も知ろうとしなかった。出会ったときのままの、ただ気の強い気高い孤高の女だって信じて、泣き顔なんて……アイリスが泣くなんてオレは思ったこともなかった」
いや、そういえば十年前のあの日も、アイリスは泣いていたじゃないか。
ケインの想いを思って、涙を浮かべていた。
ちゃんと覚えているのに、忘れていたのは……あの涙が彼女自身のために流れたものではなかったからだろう。
「アイリスだって一人の人間で、当然泣きたいこともあるだろうに、オレはアイリスなら困難全部自分で跳ね返して、自力で一人で幸せになれるって思ってた。……オレの陽だまりは、いつだって自力で光り輝いて、勝手に暖まってると思ってた」
「……貴方の、陽だまり?」
「オレの、冷え切った身体も心も温めてくれる場所はずっとアイリスだった」
キャサリンへの想いと兄という立場の狭間で悩んで、苦しんで、悲鳴を上げそうになる度、アイリスに縋っていた。アイリスは愚かな恋の話を、時に優しく、時に辛辣に、でも常に笑って聞いてくれた。
応援してくれたわけじゃない。ただ否定しなかっただけ……ただそれだけにどれほど救われて、どれほど楽になれただろう。
間違いなく、ケインの陽だまりはアイリスだった。
「なのに、その温もりの意味を、オレは考えたこともなかった。陽だまりは勝手に暖かいんじゃない。ほかの誰かが暖めてくれるから、暖かくて……その温もりをほかの誰かに別けてくれる場所だった。……シェリス殿下が暖めてくれた場所にオレを入れてくれてありがとう」
「違う、私、そんなつもりじゃ……貴方の陽だまり、なんて」
「アイリスにその気が無かったとしても、オレの陽だまりはずっとアイリスで。離れてからも、ずっとずっと、お前がくれた温もりに助けられてきた」
そうやってケインは苦しい時間を生き延び、激しい想いを思い出に変えられた。
そして、アイリスから温もりと優しさをもらったから、ケインはキャサリンの陽だまりに、彼女がいつでも無条件に頼れる場所に、なることができた。
今はもう、いつまでも仲睦まじい妹夫婦を見て、甥や姪と一緒に砂を吐きそうになることはあっても、かつてのように激しい嫉妬に身悶えることはない。
穏やかに、呼吸をするのと同じくらい自然に、彼女たちの幸せを笑って眺めていられる。
「オレが今感じてる幸せ全部、あの日アイリスに出会ったから得られた幸せだ。ずっと、ありがとう、アイリス」
だから……と続けようとした再度のプロポーズの言葉を、我に返ったアイリスが慌てて止める。
「お願い、もうやめてっ。聞いてるこっちが恥ずかしい……私は自分のために貴方を脅迫しただけで、他意は無かった」
出会いは決して甘やかなものではなく。最初に二人を繋いだのは、毒々しい夕日のオレンジに炙られ濃い影の落ちた教室で交わした取引だ。
互いの利己的な望みを叶えるためだけの取引だったはずなのに……どうして二十年近く経った今、こんなことになっているのだろう?
とうに涙も乾いて、引き連れたような感触の残る頬を意味も無く擦りながらアイリスは考える。
最初は、ケインの想いの行く末を見たくて近づいた。
でも、長く一緒にいて、ケインという人を深く知って友人になってからは、彼に幸せになって欲しいと思うようになった。
別れの日、彼の幸せを願って泣いたのは嘘じゃない。
悲しい顔で笑わないで欲しかった。
嘘の笑顔で幸せを語らないで欲しかった。
だから、正しい幸せを、探して、見つけて、掴んで欲しいと心底願った。
それをやっと見つけたらしい親友に、突然真顔でプロポーズされて、意図しなかったことで褒めちぎられて、どうしたらいいのか本当に判らない。
ケインを好きか嫌いかと問われたら、当然好きだ。信頼しているからこそ、この年になって人前で泣きじゃくるなんていう醜態をさらせたのだ。
でもそれは人間としてで、男としては……正直意識したことがない。さっき見つめ合って頬が熱くなったのも、久しぶりに男という存在を近く感じての条件反射だっただけ。
ましてや自分たちは、十数年前まではほぼ毎日一緒にいたが、その後全く互いの動向を知らずにいて、今日、ついさっき偶然再会したばかり。
いきなり結婚と言われてすんなり受け入れられるわけもない。
そもそも、一度目の夫やシェリスの夫のおかげで、アイリスは男というものにほとほと愛想が尽きている。だから、このまま誰にも迷惑をかけないよう、一人でひっそり生きてこっそり死んでいくつもりだったのに……。
ケインの妻になると言うことはつまり、メイフィール伯爵夫人になるということだ。アイリスは成人後すぐにシェリスについて行ったから、この国の社交界にはデビューすらしていない。そんな状態で伯爵夫人としての社交など……まあ自分ならできるだろうという自信はあるけれども……。
様々に考えて、色々断る理由を探して、アイリスは深く溜息をついた。
どう考えても断るに足る決定的な理由が見つからない。
強いて言えば突然であることだけが問題で……それ以外何も、問題が無い。
そろりと顔を上げてケインを見て聞く。
「私三十間近の出戻りよ」
「知ってる」
「可愛げ無いわよ」
「そうか? 昔も今も、嬉しそうに笑う顔は結構可愛いと思うけど」
「え?」
「え?」
「昔もそんなこと思ってたの?」
「……まあ、時々」
「そうなの……」
ケインの思いもよらない返答で会話が途切れ、気まずい沈黙が流れる。その空気を断ち切るようにケインはそそくさと元の席に戻ると居住まいを正した。
適切な距離を取って改めて見つめ合い、でも気恥ずかしくてお互いすぐに視線を反らす。
「アイリス……いきなりだっただけど、オレの気持ちに嘘はない。さっきは勢いで返事急かしたけど、すぐに答えはいらないから、できればじっくり考えて返事をして欲しい」
「そう……ね、うん、そうする。今日は一旦帰るわ」
「じゃあ帰りの馬車を用意させるから」
「先にちょっとお手洗いを借りるわね」
逃げ出すように、ほぼ同時に言って立ち上がり、顔を見合わせ、互いの行動にどちらからともなく笑ってしまった。
「……やっぱり気が合う」
「そうねぇ」
笑ったまま先に行って扉を開いたケインは、手洗いの位置は昔と変わりないと伝え、また後で……と別々の方向に歩き出した。少し進んで振り返ったケインは、廊下の曲がり角に消えていく深緑の影を瞳を細めて見遣った。
以前の別れの日は、座ったまま彼女の背中を見送った。
あの日分かれた道は、もう永遠に交わることは無いと思っていたのに……。
『結婚しようアイリス』
ついさっき勝手に零れた言葉に自分で赤面して、片手で半顔を覆う。
勢いで言ってしまった言葉。
でも後悔は不思議なほど無かった。
あんな風に泣かせるために送り出したんじゃない。
幸せになると信じて、送り出したんだ。
彼女にも幸せになって欲しかったから……。
『ねぇケイン』
『なぁアイリス』
家族以外で唯一名前を呼び捨てた女性。
キャサリン以外で唯一、幸せになって欲しいと願った女性。
昔からずっとアイリスはケインの、特別だった。
キャサリンとは違う、縁も所縁もない本当の他人。数多の人間がいる中で、奇跡のように出会って、特別な存在になった唯一の女性。
「幸せになろう、アイリス」
一度目の別れの日、アイリスが心の中で呟いた言葉を今度はケインが呟いて。
二人の出会い直しは終了した。
上手いわけどころが判らず、最後が少し短くなってしまいました。
本当はここで終わる予定でしたが、もう少し続きます。
ただいま執筆中です。良ければ、最後までお付き合いいただけますと嬉しいです。
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