後篇
無反応になったケインに向けてキャサリンは労るように続ける。
「私たちは、いつでもお兄様の幸せを願っています」
「……ありがとう。お前の……そういうところが、オレは、本当に好きだよ」
「ええ、私もお兄様が大好きです。だから、お兄様も好きな方と幸せになってくださいね」
念を押されても、もう何も答えられなかった。
好きな方と幸せに?
喉の奥でククッと笑って語り掛ける。
……なれるわけない。
だって、ケインの好きな人は、目の前でこんな酷いこと言ってる。
何度好きと言ってくれても、キャサリンの<好き>は、決してケインの欲しい<好き>にはならない。
それなのに、いつか好きな人と幸せになってくれだって?
酷いにもほどがある。
オレが心底欲するお前は、決してオレを選んではくれないのに……。
勝手にこみ上げてくる八つ当たりが愚かしくて、無意識に唇が歪む。
それを笑ったと勘違いしたのだろう、不思議そうな声が問う。
「どうしました?」
「……なんでもないよ」
優しい兄の仮面を被り直して、木の葉から視線を引き剥がす。
目の前には見惚れずにはいられない美しい少女が優しく微笑んでいた。
……愛おしい。
しみじみこみ上げてくる感情を兄の仮面を被って声にする。
「キャスはオレが好き?」
「ええ、もちろん。お兄様は?」
「もちろん……誰より愛してるよ」
「嬉しい」
言葉をそのまま受け取ってニコニコと笑うキャサリンが、可愛くて愛しくて、……憎らしい。
どんなに真剣に言っても、決して、本当の意味では伝わらない想い、言葉。
キャサリンを包む<妹>という膜に阻まれ弾かれた言葉が胸に戻って突き刺さる感触がした。痛む胸元を片手で覆う。
ここに在るものすべて吐露出来たら、痛みは消えるのだろうか?
……いいや、消えない。
寧ろ、新たな痛みが生まれる。
ケインだけではない、キャサリンにも、両親にも……。
判っているから、痛みはこの胸の中だけに。
この苦痛には他の誰も巻き込まないと決めていた。
痛む胸の内、過った姿は唯一痛みを打ち明けた相手だった。
「…………アイリス」
思わず呟いた小さな声は妹の耳にも届いたのだろう、驚く仕草があった。しかし、彼女が何か言う前にノックの音が響き、入室してきた侍女が来客を告げる。
婚約者の来訪に、キャサリンは歓喜と直後に戸惑いを浮かべケインを窺った。目が合って、何か言う前にこちらから送り出した。
「気をつけて、あまり遅くならないようにな」
「……はい。では、いってきます」
パタンとドアが閉じて一人きりになると、部屋の中は途端に静かになった。
きっとキャサリンは今の呟きを、先ほどの会話を、婚約者に話してしまうだろう。もしかしたら両親の耳にも入ってしまうかもしれない。
まあ良いか……と思う自分は酷い人間だ。
「アイリス……ごめんな」
もういない人の幻に謝ると、在りし日の声が聞こえた。
『もう、しようのない男ね』
叱りつける声。
呆れる声。
励ます声。
唯一の親友に秘密を暴かれた日の事を思う。
空気のように当たり前だったから。
あまりに近くに居過ぎたから。
気付かなかった想い。
キャサリンへの、……妹への思慕。
何も知らなければこんな想い抱かなかっただろうに……と過去を悔やんでも、事実は覆せない。
ケイン・メイフィールとキャサリン・メイフィールは兄妹ではない。
全くの赤の他人だと、ケインはほんの幼い頃から……否、彼女と出会ったときから、知っていた。
だから幼い頃からずっと、男として、キャサリンを想ってきた。
その光景の意味を理解したのは随分と後だったけれど、ケインは、義母とキャサリンが初めて家にやってきた日のことをちゃんと覚えていた。
ケインはまだ幼かったから、その光景も言葉の意味も判らないと大人たちは判断したのだろう。初めて見る赤ん坊に夢中だったケインの横で、父と義母と両祖父母が話していた。
外国の侯爵家の娘だった義母は、未婚のままキャサリンを生んだ。
父親は当時の婚約者。しかし、彼は式の直前、事故で儚くなってしまった。
彼の死後妊娠に気付いた義母は、愛しい人の忘れ形見を守るために、事実を両親に打ち明け、ひっそりとキャサリンを産むことを決めた。
もちろん婚前交渉など貴族の娘として恥ずべき事だったが、二人は結婚を約束していた。不幸な事故さえなければ、何の問題もなく幸せな家族となっていたことだろう。
だが、貴族社会も、社交界も、義母の行動を美談には決してしない。侯爵家の未婚の娘が父親の判らない子供を産んだ。ただそれだけを広め、家を、義母を貶める。
しかし、他人にどう言われようと義母は愛しい人の忘れ形見を決して手放したくないし、両親も娘と孫の不幸は望まない。さりとて、名誉ある貴族として、一族と領民を守る使命もある。
そうして探し出した縁が、商売の取引相手だった外国貴族のケインの父の後妻の立場だった。
国外に嫁いでしまえば、色々とうやむやにしてしまうことも出来る。既にケインという跡取りもいる父に、見知らぬ女子供ををすぐに家族として遇してくれとは言わない、ただ娘と孫の生活を保障してくれたらそれだけで……と義母の両親が頭を下げていたのを覚えている。
貴族の家同士、それによる何かしらの打算もあったのだろう。
だが、父は即断せずに、そばにいたケインに判断を委ねた。
『ケインは母上が出来たら嬉しいか?』
『うん!』
母上……言葉として知っていても、その存在を感じたことはなかった人。
得られると言われて、力強く頷いた。
『この子のことも、可愛がれる?』
『赤ちゃん? うん、可愛いよ』
『ずっとこの子を守ってやれる?』
この子と、籐籠の中ですやすや眠る赤子を示され聞かれた。
ついさっきまで真っ青な目でこちらを不思議そうに見上げていたのに、もう眠っている小さな小さな生き物。
青い目をもう一度見たくて、赤い頬を指でつつくと嫌そうに小さな拳を振り回した。
その仕草が酷く可愛いと思った。
愛おしいと感じた。
だから、父を見上げもう一度力強く頷いた。
『判った。ケイン、父上と一緒にキャサリンと母上をずっと守っていこう』
ケインの返答を受けて、父は彼女らを家族として受け入れることを決めた。
あの日の出来事、一日たりとも忘れたことはない。
だから出会いからずっとずっとキャサリンを守ってきた。
父に言われたとおり、彼女を誰よりも可愛がり、誰よりも特別に守ってきた。
……それが勘違いだったと気付いたのはいつだったろう?
多分ケインは……出会って以降、ただの一度も、キャサリンを<妹>として扱ったことはなかった。
だってすべてを知っていたから。
ケインにとってキャサリンはずっとずっと一緒に暮らす、一番親しい女の子だった。
だから……子供の頃は無邪気に口にしていた。
『いつかキャサリンを僕のお嫁さんにしてあげるよ』
よくある子供同士の会話。
頷いてくれるキャサリンが愛しくて愛しくて、当時のケインにとってそれは夢幻の願望ではなく。誰より大切な女の子を一生守っていく一番確実な方法として、確定の未来だった。
いつかキャサリンは自分のお嫁さんになると、ケインは無条件に信じていた。
そんなケインの想いに一番最初に気付いたのは義母。
それが女親の勘というなら、本当に凄いものだ。彼女は義理の息子の娘に対する執着を警戒し……万が一の可能性に震えたのだろう。
幼子だからと同席させた密会のことをケインがもし覚えていていたら?
あり得ないと打ち消しながらも安心出来なかった彼女は、早々にケインたちを引き離し、兄妹は結婚は出来ないという当たり前の事実を知らしめるための教育を施した。
そこまでされてやっと、ケインは自分の想いと現在の関係の矛盾に気付いて、幼い日の出来事をちゃんと確かめたのだ。
結果キャサリンは、義母が後妻となった後産まれた父伯爵の実子で。
ケインたちは異母兄妹と周知されていることを知った。
よく考えれば当然のこと。
父の再婚は、義母の婚外子という醜聞を隠すために仕組まれた結婚。キャサリンの生まれを疑われないよう工作するのは当たり前だ。
キャサリンは間違いなく、メイフィール家の、父伯爵の血を引く娘であり。
ケインの異母妹として公文書に記されていた。
ならば……、ならば、決して過去を暴いてはいけない。
家のため、両親のため……何より、キャサリンのために。
決してこの秘密を漏らしてはならない。
気付いた事実に漏れそうになった悲鳴を両手で口を覆って堪え、至る結末に勝手に涙が零れた。
つまり……オレの想いは決して叶わない。
この想いは届かない!!
自覚した瞬間涙は量を増し、息も出来ない絶望に床に膝を突いた。
果てしない絶望の中、ケインは愛する人のためすべてを秘めることを決めた。
今なら誰もこの気持ちを知らない。流石に両親も、まさか息子が本気で妹を女として意識しているなどとは思っていないだろう。
ならば、まだ間に合う。
何も知らない顔をして、本当の兄になれば良い。
オレがキャサリンを妹として愛する兄になりさえすれば、何も問題ない。
そうすれば誰も傷つかない。
オレが諦めさえすれば……。
そう決めて、ずっとずっとキャサリンの成長を、兄として見守ってきた。
幸い上手に感情を隠すようになったケインの想いは、アイリス以外誰にも気付かれることなく。
両親も幼い頃の仲の良さをからかうことはあっても、もう心配はしていない。
そしてキャサリンは何の憂いもなく成長し、自らの手で愛しい男を選び、嫁いでいく。これからも彼女は自ら選び取った幸せを抱いて、笑って生きていくことだろう。
キャサリンの幸せが、オレの幸せ。
笑っているキャサリンを見ているだけでこちらも笑顔になれる。
……でも時々、本当に時々。今日のように、あまりにも間近でそれを見るのは、やはり少し辛くて。どんなに時間が経ってもなくならない恋心が疼いて、溢れそうになって、息が出来なくなる。
その息苦しさを思い出して、胸を押さえた。
ふと自分の呟いた言葉を思い出す。
『空気みたいな人』
空気のように当たり前に側にいた異性。
性差を意識する前から、守るべきものとして、深く誰よりも愛してきた。
美しくなる様をずっとずっと見守ってきたのに、絶対に手が届かない。
ケインにとっては、空気のようにかけがえない存在なのに……。
「ああ……あの例え間違いだったな……。空気が無くなったら、死んでしまう」
でもケインは、生きていく。
今日も明日も明後日も、空気のように大切なキャサリンを失っても……生きていく。
ひらりと視界の端を何かが横切った気がした。
目を向けた先、しかし、あの木の葉はまだ枝にあった。
今にも取れてしまいそうなのに、どんなに風になぶられても決して落ちない木の葉に、何故か我が身が被る。
……本当は、もう我慢なんかしたくない。
何もかも投げ出して、想いを叫んでしまいたい。
愛してると華奢な手首を掴んで抱きしめてしまいたい。
「愛してるんだ……」
そう一言。
想いを伝えることさえ出来たら……。
そうしたら……もしかしたら……届くかもしれない。
応えてくれるかもしれない。
都合の良い願望を、永の年月捨てられないままここまで来た。
「誰より……愛してる」
でも、そんなことを絶対にしないのも、また……。
心底彼女を愛しているからだ。
妄想を実現させて、その後は?
自分が想いのままに振る舞ったら家は、両親はどうなる?
己が望みのために最愛の人たちを犠牲にするような身勝手な願いの叶え方、ケインには出来ない。
出来ないから……。
ケインはあの木の葉のように今にしがみついて、これからを生きていく。
男として、誰よりキャサリンを愛している。
そして、誰より愛しているから。
彼女の行く先をただ見守る、兄でいられる。
表裏一体の感情を抱え、気付いたらキャサリンと同じように木の葉に想いを託して必死に願っていた。
落ちないで。
諦めないで。
頑張って。
どうか……オレが最後まで耐えられるように。
ケインの願いなど露知らず、木の葉はただ吹き付ける風に揺れ続けていた。
※補足。
義母の事情なんかは、当時聞いたままを覚えているわけではなくて。その記憶を元に主人公が調べて推理した結果、みたいに捉えていただけるとありがたいです。
その文をうまく差し挟む箇所が見つけられない私の力量不足、すみません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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