前篇
春近くになっても、まだ寒いある日。
貴族学院の卒業を数カ月後に控えたケインは、次期伯爵としての修行を兼ねた執務を終え、話し相手を求めて居間へ出て行った。いつもならこの時間、母親である伯爵夫人がそこでお茶をしているはずだった。
しかし、今日そこにいたのは妹のキャサリンだけ。
キャサリンは湯気の上がる紅茶を放って窓辺に立ち、外をただ眺めている。何かを必死で見ている彼女は、部屋にケインが入ったのも、背後に立ったのも気が付いていないようだった。
「何を見てるんだ?」
びくりと大げさに肩を跳ねさせたキャサリンは、初めてガラスに写るケインに目を向ける。
「お兄様っ、ごきげんよう」
慌てて答えながらも決してこちらを振り返らない様を不審に思い、ケインも窓の外へ視線を向けた。晴れてはいるが、今日は随分と風が強い。吹き付ける風が、大きな掃き出し窓をガタガタと揺らせていた。
「何か気になるものがあるのか?」
「あの木の葉が……今にも取れそうでなかなか取れないのが、なんだか気になってしまって」
指差す先、冬が来て裸になった一本の庭木の枝に、唯一残った枯れ葉が未だしがみついているのが見えた。
言葉に被るように、一際強い風が吹いて大きな風音がする。びゅーっという轟音に合わせて、木の葉は打ち上げられた魚の如く震えた。
「あっ……」
慌てたキャサリンが声を上げて、窓枠に手をつく。しかし葉はまだ落ちてない。あからさまにホッと肩を落としてから振り返って言った。
「あれが落ちないよう、応援しているんです」
無邪気な顔で呟く妹を見下ろし、心底困って頬を掻いた。
妹の行為に、勝手に応援されても葉っぱも困るだろう、と思ってしまったのだ。
今は落ちないよう一生懸命しがみついていても、永遠にその場にとどまれるわけもない。
いつか必ず力尽きる運命。
なのに、頑張れ、耐えろ、逆らい続けろと、無関係な外野から無神経に望みを託されるのは鬱陶しいだろう。
寧ろ、キャサリンに見守られている所為で葉が散ることが出来ないように感じて……哀れな葉っぱのため、また窓の方を向いた妹の眼前に手のひらを翳して視界を遮った。
「紅茶が冷めてしまう。席に戻りなさい」
「えぇ……」
嫌そうにする肩を押してソファーに戻らせようとしたが、彼女はしっかり拒む。
「キャス」
「だって……」
「お前が見ていようがいまいが、あれの運命は変わらない」
その冷めた物言いに、ケインを振り仰いだキャサリンはやがて心底嫌そうに顔を顰めると、ぷいっと顔を背けた。
「夢のないこと」
「夢じゃ腹は膨れないからな」
促され渋々ソファーに座ったキャサリンの向かいにケインも腰を下ろす。サッと現れたメイドが紅茶と菓子を置き、キャサリンの紅茶も取り替えようとしたが、彼女は手を振って断った。
「今日は寒そうだな」
「ええ。でも私もうすぐ出かけるの」
「わざわざこんな日に?」
「テッドと約束があって」
毎日学院で顔を合わせているのに、休みの日まで会うなんて仲の良いことで……なんて茶化す科白、わざわざ口にはしない。
テッドはキャサリンの同級生で、婚約者だ。二人は貴族学院で出会い、政略関係なく惹かれ合って、婚約した。何事もなければ、卒業と同時に結婚する予定だ。
妹と婚約者の仲が良好なのは喜ぶべきことなのに、ケインの胸には外の大風に似た突風が吹き荒れ、誤魔化すように、茶菓子を口に運ぶ。
キャサリンはまだ木の葉が気になるようで、チラチラとそちらを盗み見て気もそぞろにカップに口をつけていた。
そこで、少し会話が途切れた。
静かになった部屋の中に、風の音が響く。室内にいてもうるさく聞こえる轟音は今後の荒天を予想させた。
今から出かけては戻る頃には雨になっているのではないだろうか? どこに行くのか知らないが、充分気をつけるように告げようとした途端、こちらを見ていたキャサリンとしっかり目が合う。
思わず見つめ合って声を詰まらせたケインに向けてふわりと笑い。
妹は少し恥ずかしそうに聞いた。
「ねえお兄様……隣に行ってもいい?」
「あ? ……ああ」
不意に問われ、つい承諾してしまった兄の隣。いそいそテーブルを回り込んでやってきたキャサリンは、思いのほか近くに腰を下ろした。
彼女の重みを受けて僅かにクッションが沈み、ケインの身体がそちらへ少し傾ぐ。思わず、肩が触れあった。
その瞬間、プツリとケインの耳に届く音が止む。心地よい静寂に身を委ねようと閉じかかる瞼を引き止めたのは、可愛い妹の声だった。
「ねぇお兄様……お兄様は、どうしてアイリス様と婚約なさらなかったの?」
静かな部屋に、妹の声はいやに大きく聞こえ、無意識に身体が震えた。
アイリス。
久しぶりに聞いた名前に、あぁ……と小さく唸る。
未来の伯爵夫人として、身分も人柄も申し分ない女性だったケインの同級生のウェーバー侯爵令嬢アイリス。
同じクラスになったことは在学中一度もなかったが、学院にいる間、ケインは彼女とよく一緒にいた。
昼休みに中庭で、放課後のカフェで……人目に触れる場所で常に睦まじく過ごしていたから、周囲は二人の仲を、将来を疑っていなかった。
二人の卒業が近くなり両親からその意思を確認された時ケインは、しかしアイリスと結婚の意思はないとはっきり告げた。その言葉に、両親はただただ驚愕していたが、妹はずっと不満そうだった。だからこうして踏み込むことにしたのだろう。
溜め息を堪えたまま、キャサリンの問いに対する答えを探す。
彼女と婚約しなかったのは……互いに譲れないものがあったからだ。
ケインには譲れない想いが。
アイリスには譲れない忠誠心が。
互いに譲れない絶対があった。
だから婚約には至らず……でも、だからこそ自分たちは、学院生活を特に親しい友人として過ごすことが出来た。
ケインの想いを理解し、からかいながらも常にそばにいれくれた唯一の共犯者。
気の強そうな外見そのままに、勝ち気で我が強く……だからこそ気高い女性だった。
もう簡単に会うこともなくなった友人の姿を思い出し、勝手に口元が綻ぶ。それを見たキャサリンが、きゅっと口を尖らせて、咎めるように言った。
「私、アイリス様がお姉様になる日を楽しみにしていました」
「それは悪かった」
「アイリス様、王宮侍女の試験に合格されたそうです」
「ああ、知ってる」
「お気の毒に。きっと婚約者が見つからなかったから働きに出ることになったのですよ」
それは違う。
アイリスは出会ったときからはっきりと夢を定めて、そこを目指して勉学に励んでいた。寧ろ、そのための時間稼ぎの隠れ蓑が、ケインの存在だったのだ。
「キャス、それは違う」
はっきりきっぱり否定するケインの方を向いた妹は、やはり驚いた顔をしていた。
「アイリスが気の毒なんて、それは彼女の選択を汚す言葉だ。取り消しなさい」
「……ですが」
「キャス、さっきからお前は、まるでオレがアイリスを見捨てたように言うけど、オレがアイリスに捨てられたとは考えないのか?」
驚いて目を見開く妹の中にそんな考えはないと判っていてあえて問うた。
一般的な貴族の娘の常識では、嫁ぐことは人生の使命。嫁いだ先で、家を守り夫を支え、跡取りを産み育て、家を次代に繋いでいくことが何より大切と教えられるのだ。
折角見つけた相応しい縁を、女の方から捨てるなんてあり得ない。
そう訴える妹の目を間近で覗き込み、ゆっくり首を横に振った。
「だって、そんな……お二人はあんなに仲良くしてたじゃないですか。なのに、断るなんて、……信じられない」
「オレがアイリスのおかげで楽しい学生生活を送ったのは事実だ。でもそれは、お前と婚約者殿のような……一生を共にしたいと願うような男女の情があってのことじゃなかった。
オレの所為で彼女の婚約者捜しの時間を奪ってしまったなら、それは謝るべきことだが、彼女はずっと昔から未来を決めていた」
「でも、結婚してからもお仕事を続けている方もたくさんいるじゃないですか。アイリス様も……」
「アイリスは幼い頃からずっと、第一王女殿下付の侍女を目指して励んでいたんだよ」
「第一王女殿下……? あ……」
何かを察して片手で口元を覆うキャサリンからそっと視線を外した。
ケインたちと同級生だった第一王女の婚約者は他国の人間だ。彼女は成人と共に、あちらの国へ移住することが幼い頃から決まっていた。
つまり、王女付の侍女になると言うことはそれに追従するということ。
それがアイリスの長年の夢で、希望。
最初から彼女は、国内貴族に嫁ぐことなど望んでいなかった。
ケインの少ない説明でちゃんと事情を察したのだろう、キャサリンは驚きの後、哀しそうに眉を寄せて顔を俯けた。
「……そういうことでしたの」
「ああ」
「では、お兄様は失恋なさったの?」
「……そうとも言うかもな」
失恋。
恋を、失う。
それはどの状態のことを言うのだろう?
想いは決して届かないと知ること?
それとも届かないと判った時点で諦めること?
後者なら、ケインの失恋はまだだ。
まだ諦められない。
未だ想うことをやめられないでいる。
不意に手のひらが温もりに包まれて、はっとする。
キャサリンが両手でケインの手を包み、暖めるように柔らかく握っていた。
「お気の毒に……私何も知らなくて、不出来な妹でごめんなさい。お兄様」
握った手に許しを請うようにキャサリンは言う。
妹の手は、極上のシャボンの泡のように柔らかくて、そして―――ほんのりと冷たかった。
「キャスが気にすることではないよ」
そんなことを言えたのは、随分と長い間を置いた後。
キャサリンの方を向くと、見上げてくる青い瞳と目が合う。ケインとも両親とも違う、澄んだ空色の瞳には傷ついたような陰りがあった。
拭いたくて、酷く自然にケインは彼女の頬に手を伸ばした。繋がれていない方の手で頬の丸みをなぞるように撫で、微笑みかける。
応えて、キャサリンの目が細くなって彼女も笑う。
その瞬間喉までこみ上げてきた苦いもの。
唾液と共に必死に飲み込み、不自然にならないように顔を背けた。
その頃にはもう心臓がうるさいほど音を立てて、胸を突き破りそうだ。誤魔化すように、冷めた紅茶に手を伸ばす動作でキャサリンの手を振りほどいた。
「お兄様? どうなさいました?」
「どうも、しない。ただ、お前があまりに可愛くて、な……」
「まあ!」
クスクスと笑う声に被せて、それと判らないようため息を吐き出した。
嘘じゃない、紛れもない本心。
でも。
本当の意味を悟られてもいけない。
可愛い妹。
大切な妹。
それ以上にもそれ以下にもしてはいけない、存在。
紅茶と共にその事実を飲みこみ、腹の底に沈ませ刻み込む。
そんな兄をどう思ったのか、ひとしきり笑ったキャサリンは黙って元の席へ戻って行った。
キャサリンの存在が遠のいて、傾いでいた身体が元に戻る。
真正面に座ったキャサリンは、ケインに倣って紅茶に手を伸ばし、完全に冷えていたのだろうそれの渋みに少し顔をしかめていた。
外では相変わらず強い風が吹いている。
そういえば……キャサリンが気にしていた木の葉はどうなっただろう?
すっかり興味を失った妹の代わりに視線を動かした途端、しばらく静かだったキャサリンがまた唐突に、こちらの呼吸を止めるようなことを聞いてきた。
「ねえ、お兄様はどんな方がお好みなのですか?」
「また……突然だな」
「失恋を癒やすのは新しい恋というでしょう。やはりアイリス様のような、はっきり意思を持った方がよろしいのかしら?」
「まさか、お前が縁結びをしてくれるのか?」
それはまた……なんと情に溢れた、……残酷な申し出だろう。
クッと痛みに笑ったケインを勘違いしたのだろうキャサリンは、あれこれと魅力的な女性の特徴を挙げ、その反応を窺う。
「テッドもお兄様とアイリス様のことを心配しておりました。私たちもお手伝いしますから新しいご縁を探しましょうよ」
私たち。
キャサリンが何気なく零した言葉がまた胸を抉る。
自分と婚約者を一纏めに表して誇らしげに答えを待っている妹が美しくて、眩しくて、……遠くて、顔を背ける。
何気なく見た木の葉は、まだ風になぶられていた。
「………な人」
「え?」
「空気みたいな人がいい」
「空気?」
「ああ」
「それは……、空気のように自然に近くいられる方ということでしょうか?」
キャサリンにしては的を得た答えに、しかし何も答えられない。パタパタと震える木の葉だけを見て、曖昧に笑う。
誤解が生まれることは判っていた。
案の定、キャサリンは少し黙って、やがて自分の中でそれを完結させる言葉を言う。
「……いつかまた、お兄様にそう思える方が見つかることを祈っています」
願うキャサリンの声は、とても真剣な響きを含んでいて……ケインは何も言えずに瞼を閉じた。




