9.
「ぐっ……、……うぅ……っ」
荒事とはおよそ縁のなかった旦那様にとって、それは生まれて初めて受ける痛みだったのだろう。
体を支える腕はガクガクと震え、殴られた口元を拭った指先の鮮血を見て、ただ愕然とされている。
「どうした。まさか、殴られるはずがないとでも思っていたのか。……貴族とて、腹が立てば拳も振るうさ」
齢六十に差し掛かろうという伯爵は、そのお歳を感じさせないほどに研ぎ澄まされた怒りを隠そうともせず、静かに旦那様を見下ろしていた。
その横で、伯爵夫人も旦那様を忌々しそうに一瞥したものの、すぐさま表情を和らげ、お嬢様へと向き直られた。
「辛かったわね、シャーロット。……本当にごめんなさい。もっと早く、あなたたちを迎えに来るべきだったわ……」
夫人がそっとお嬢様の頬に触れるが、涙は流れていなかった。
お嬢様はただ、静かに微笑みを返すに留め、唇を開かれた。
「仕方がありませんわ。お母様が望んだことですもの」
伯爵家からは、幾度となく離縁を勧める書状が届いていた。
だが、奥様がそれを受け入れることは、とうとう最後までなかったのだ。
お嬢様が薄く笑みを浮かべた。
けれどそれは、どこか痛々しく見えた。
「シャル」
ランディ様が優しくその名を呼んだ。
「大好きだよ」
何を思われたのか、ランディ様が唐突にお嬢様へと愛の言葉を紡いだ。
それまでの殺伐とした空気へ不意にもたらされた甘い響きに、私を含め、誰もが反応を返せずに立ち尽くすしか──
「……私も、だいすき」
──いいえ。お嬢様だけが、呆然とされながらも、確かにそうお応えになったのだ。
しかし、その横顔はどこか寂しさを纏っている。
「シャル。俺を見て」
ランディ様が一歩、お嬢様の方へと足を踏み出されると、彼への引力に抗えぬかのように、お嬢様のお体がわずかに引き寄せられた。
「……見ているわ」
「言葉を変える。──これからは、俺との未来だけを見てくれ」
普段のランディ様であれば決して口にされぬであろう、『俺』という一人称。そこに込められた強い意志に、お嬢様は弾かれたようにその瞳を見開かれた。
お嬢様の瑠璃色の双眸が薄く涙で滲んでいく。
──ピクリとお嬢様の動きが止まる。
ゆらりと、その視線が奥様の眠る寝台へと吸い寄せられた。
「シャル、間違えないで。君に残された言葉は『自由になりなさい』――それだけだ」
それでも、ランディ様は諦めることなく、優しくお嬢様の頑ななお心へ届くようにと、亡き奥様の本当の願いをそう紡ぎ直された。
「……あ」
それは、まるで呪縛が解けたかのような一瞬のつぶやきで。
ぱちりと瞬かれた瞳から、ころりと涙がひと粒落ちていった。
そんなお嬢様へ、ランディ様はふっと、悪戯っぽく微笑みかけた。
「欲張りさんだな、シャルは。愛する夫へ宛てた言葉まで、君が独り占めしては駄目だろう?」
「……本当に? お母様は本当にただ、私の自由を願ってくださったの? ……私は、父への呪いのために、お母様に捨てられたのかと思っていました……」
お嬢様がひた隠しにされていた心の傷が見えたようだった。
ことの成り行きを固唾をのんで見守っておられた伯爵夫妻も、あまりの痛ましさに沈痛な面持ちを隠せずにいる。
「君には俺がいるだろう? だからクリスティアナ様も、安心して君を手放すことができた。それだけのことだよ」
「……そうでしょうか。……もし、本当にそうなら……少しだけ、救われます」
昨日からお嬢様をがんじがらめに縛り付けていた張り詰めた空気が、ふっと和らいでいく。
「おや。――少しだけかい?」
少しからかうようなランディ様の問いかけに、お嬢様の白い頬がそっと淡く色づいた。
「……だって、まだ私とあなたに、確かな関係などございませんもの」
未だ山積する問題は何ひとつ片付いてなどいないというのに、凍てついていた室内の空気が、ふわりと春のように暖かくなったように感じられた。
すると、ランディ様がお嬢様の前で静かに片膝を突いた。そして──
「シャーロット嬢。私と結婚していただけませんか?」
――それは五年前、鮮やかな新緑と穏やかな日差しの中で行われたガーデンパーティーでの告白と、まったく同じ。なんの飾り気もない、ただ純粋な心のままに手渡された愛の告白だった。




