第61話
茜音はゆっくり息を吸い、涙を拭った。
陸翔は手を伸ばしかけて、途中で止める。 触れていいのか分からない。
その迷いを、茜音は見ていた。
「……ねえ、陸翔」
呼ばれて、陸翔は顔を上げる。
「私はきっと、一度目のことも二度目のことも三度目のことも、忘れることはできないと思う」
声は静かだった。
「また誰か違う人が現れて、同じことが起こるかもしれないっていう恐怖も、きっと消えない」
陸翔は何も言えない。
茜音は続ける。
「だから」
小さく息を吸う。
「私は、私の守りたいものを守る」
ゆっくりとお腹に手を当てる。
「この子を。そして、私の家族を」
その仕草は、確かめるようで、誓うようでもあった。
陸翔は唇を噛む。
「……茜音」
声がかすれる。
「きっと俺も忘れられない」
目を伏せる。
「目の前でお前が消えていく瞬間を」
息が詰まる。
「失いたくないのに、引き裂かれるみたいに遠くへ行ってしまう感覚を」
拳を握る。
「怖くて、うまく言えなくて……間に合わなくて」
茜音は小さく頷く。
ただ、陸翔の答えを受け止める。
しばらく沈黙が落ちた。
部屋には西日が差し込みだした。
茜音は視線を落とし、お腹に触れたまま言った。
「……この子には、繰り返させない」
その一言が、部屋を静かに変える。
茜音は陸翔を見る。
「私、離婚はしない」
言い切る。
「でも……」
陸翔の背筋が伸びる。
茜音はゆっくりと言った。
「もう、私は私を失わない」
その言葉は強くもなく、鋭くもない。 ただ、揺るがない。
陸翔はゆっくり頷く。
「……分かった」
それ以上の言葉はいらなかった。
「それと」
茜音は視線を逸らさず続ける。
「私の家族を巻き込まない」
「絶対にしない」
即答だった。
茜音はようやく息を吐く。
長い間、胸に抱えていたものを下ろすように。
そのとき、部屋のどこにも余計な音はなかった。 あの思考をかき乱す羽音も。
ただ、静けさがあるだけだった。
茜音は窓の外を見て、かすかに笑った。
「今日も夕方からバイトに行かなきゃだから、私帰るわね」
陸翔は目を瞬く。
「帰るって……どこに?」
「家」
あっさり言う。
「家はここだろ?」
茜音は少し肩をすくめる。
「今はまだ、私の家があるの」
くすりと笑う。
「隠れ家よ。秘密のね」
陸翔は呆れたように息を吐き、それでも笑った。
「離婚しないなら、バイトだって続ける必要はないだろう?」
「うーん。でも、あのバイトすごく楽しいの」
お腹をそっと撫でる。
「この子も喜んでるみたいだし、もう少し続けたいの」
少しだけ間を置いて、続ける。
「またいつ、自立が必要になるか分からないからね」
その言葉に、茜音の覚悟が見えた。
茜音は扉の前で一度だけ振り返る。
何も言わない。 ただ、まっすぐに陸翔を見る。
それだけで十分だった。
扉が閉まる。
静まり返った部屋に、陽の光が広がる。
過去は消えない。 傷も消えない。
それでも、立っている。
羽音は、もうしなかった。




