第60話
「今度は、陸翔との人生より……私の家族を守りたかったの」
茜音はゆっくりと言葉を選んだ。
「だから、私から離婚を切り出して、あなたから離れれば……家族に影響は及ばないって思ったの」
声は静かだったが、決意が滲んでいる。
「でも……」
一度息を整える。
「私に、赤ちゃんができた」
その言葉に、陸翔ははっとしたように茜音から少し身を離し、そっとお腹へ視線を落とした。
「……いつ分かったんだ?」
言葉が早くなる。
「それに、離婚して俺に言うつもりはなかったのか? 一人で産み育てるつもりだったのか?」
矢継ぎ早の問いに、茜音は小さく苦笑する。
「妊娠が分かったのは、私が朝マンションに行った日よ」
「……彼女が、私のパジャマを着ていた日」
陸翔の呼吸が止まる。
「ずっと体調が悪かったから、あの日病院に行こうと思ってマンションに診察券を取りに行ったの。
それで、検査をして……分かった」
淡々と話すが、その裏に揺れがある。
「妊娠のことを言ったら、あなたはきっと離婚しないって言うでしょう?」
まっすぐ見つめる。
「もしかしたら、この子を取り上げられるかもしれないって……怖かったの」
陸翔の顔が強ばる。
「取り上げるわけないだろ」
「分からないわ」
茜音はかすかに首を振った。
「三度目までのあなたは、奈菜との子供を選んだ。
私は何度も、何度も後回しにされた」
その事実は重い。
「ところで、どうして私が妊娠しているって分かったの?」
問い返され、陸翔は息を吐いた。
「啓介さんが教えてくれた」
「お兄ちゃんが?」
「ああ。“人はな、守るものができると強くなる”って言ったんだ。
それで、もしかしてって思った」
あの言葉は、遠回しだったが確信だった。
「きっと啓介さんなりに、俺に伝えたかったんだと思う」
茜音は目を伏せる。
「私、自分が妊娠するなんて思ってなかったの」
「彼女が妊娠する運命だから、私はできないんだろうって……どこかで決めつけてた」
「だから、本当に驚いた」
その驚きは、希望と恐怖が混ざったものだった。
「一人で産んで育てるつもりだったのか?」
陸翔の声は、先ほどより静かだ。
「うん。もちろん家族には頼ることになると思ってたけど……できるだけ自分で育てたかった」
少し照れたように続ける。
「……だから、バイトも始めたの」
「バイト?」
「最後にあなたと会ったホテル、覚えてる?」
「あの最上階のレストラン。夜景がきれいなところ」
陸翔は目を見開く。
「……まさか」
「そこで、ピアノの伴奏を始めたの」
静かな笑みが浮かぶ。
「もしかして、この間あそこで弾いてたのは……」
「茜音なのか?」
「え?知ってるの?」
陸翔は思い出す。
「あの夜、俺はたまたまそこにいた。
茜音の好きな曲だったから、すぐに分かった」
わずかに笑う。
「“ここでいつも間違えるんだよな”って思ったら、同じところでミスをした」
「でも、まさか茜音が弾いているはずないって、思い直したんだ」
茜音はくすりと笑った。
「この子が、引き合わせたのかもしれないわね」
その言葉は軽い。
けれど温かい。
しばらくの沈黙のあと、茜音が尋ねる。
「ところで、彼女はどうしたの?」
「ああ……あの後、本当に会社を辞めた」
陸翔は静かに答える。
「児童養護施設に行った。住み込みで働けるらしくて、マンションも引き払った」
それは事実の報告だった。
余計な感情は、もうない。
茜音はゆっくりと頷いた。
何かが終わり、何かが始まろうとしている。
部屋の空気は、以前とは違っていた。




