第59話
「三度目で、ようやく全部思い出した」
そう言ったきり、陸翔はしばらく黙り込んでいた。
茜音もまた、言葉を挟まない。
やがて、陸翔は静かに続けた。
「気づいたときは、朝だった」
「でも隣に茜音がいなくて……慌てて家の中を探した」
あのときの焦燥は、今も体に残っている。
「そこで、ふと思い出したんだ。
“昨日の夜は、茜音は実家に泊まるって言ってた”って」
茜音の睫毛が揺れる。
「だから、全部夢だと思った」
屋上も、闇も、あの絶望も。
全部、自分が見た悪い夢だと。
「でも――」
陸翔は視線を落とす。
「会食で酒を飲まされて、田口に部屋まで運ばれているとき、確信した」
「これから起こることは、夢じゃないって」
胸の奥に、嫌な既視感があった。
「どこかで、経験したことがある感覚だった。
デジャブみたいな、逃げられない流れみたいなものが」
茜音は息を呑む。
「だから、とっさにペンで足を刺した」
その言葉に、茜音の視線がゆっくりと陸翔の足元へ落ちる。
「……だから、あの夜、あなたはベッドにいないで立ってたの?」
「……なぜ、そんな馬鹿なことをしたの?」
陸翔は首を振る。
「馬鹿なことじゃない」
低く、はっきりと。
「茜音を失うより、馬鹿なことはない」
その言葉に、茜音の呼吸が乱れる。
陸翔はそっと茜音を抱き寄せた。
拒まれないことを確認するように、ゆっくりと。
「正直に言うと、一度目も二度目も三度目も……最後の場面以外はほとんど思い出せない」
「どうしてそうなったのか、なぜあんなことをしたのかも、分からない」
拳が震える。
「ただ、茜音がこの世から消えたときの後悔と絶望だけが、残ってる」
それは消えない傷のようだった。
茜音は小さく息を吸う。
「……どうして、私に本当のことを話してくれなかったの?」
その問いは、責める響きを含んでいない。
陸翔は目を閉じる。
「何度も話そうとした」
「でも、言葉にならないんだ」
ゆっくりと続ける。
「行動しようとすると、頭の中に、まるで無数の虫がいるみたいな音がして……」
茜音が顔を上げた。
「羽音がして、何も考えられなくなる」
部屋の空気が、わずかに震える。
「今も? 今もなの?」
陸翔は首を横に振った。
「今は、しない」
静かな声だった。
「だから、こうして話せている」
茜音は、しばらく黙り込んだ。
「……だから、いろんなことが違ったのね」
小さな呟き。
「違うのか?」
陸翔の問いに、茜音はゆっくり頷く。
「今までは、あなたは必ずホテルで奈菜と関係を持っていた」
その言葉に、陸翔の体が強張る。
「そして、私に離婚を迫るの。
私は拒んだり抵抗したりするんだけど……」
声が震える。
「結局あなたは奈菜を選んで……」
言葉が詰まる。
「……奈菜との間に、子供ができるの」
陸翔の呼吸が止まった。
「あなたは私と離婚するために、私の家族を巻き込むのよ」
瞳が、揺れる。
「だから、三度目のとき決めたの」
涙が頬を伝う。
「“もうあなたなんていらない”って」
その言葉は、静かだった。
だが、深く刺さった。




