第58話
茜音は黙って陸翔の話を聞いていた。
涙は止まることを知らないように、静かに頬を伝い続ける。
本当に――何もなかったのだ。
その言葉が胸の奥でゆっくりと形を持ちはじめる。
陸翔はそっと茜音の隣に座り直した。
震える頬に触れないようにしながら、ティッシュで涙を拭う。
「言えなくて悪かった。ごめん」
低く、まっすぐな声だった。
「……そして、まだ話せていないことがある」
茜音の睫毛がわずかに揺れる。
「まだ話せてないこと?」
陸翔はゆっくり頷いた。
「三度目の人生のことを、覚えているか?」
茜音の瞳がかすかに揺れた。
「……三度目?」
「屋上だ」
その一言で、空気が凍る。
「お前が、屋上から身を投げた日」
茜音の指先が震えた。
陸翔は視線を逸らさない。
「俺は、あの場にいた」
喉が乾く。 それでも続ける。
「電話がつながらなくて、嫌な予感がして……屋上まで走った。
ドアを開けたとき、お前が柵に手をかけていた」
あの夜の風の冷たさ。 夜景の明かり。 白いワンピース。
すべてが今も鮮明だ。
「“茜音”って呼んだ」
息が詰まる。
「……だが、間に合わなかった」
白い布が夜風に揺れ、 そのまま闇へと消えていった。
「手が届かなかった」
声が掠れる。
茜音は動かない。 ただ、涙が一筋落ちた。
「その瞬間、思い出した」
「……何を」
「一度目と、二度目の結末」
断片のように映像が流れ込んできた。
一度目。 炎の向こうに立つ茜音。 崩れ落ちる天井。
二度目。 ブレーキ音。 跳ね上がる体。 路面に広がる赤。
「全部、繰り返しているって思った」
陸翔の声は静かだった。
「俺は、何度もお前を失っている」
重い沈黙が落ちる。
茜音の肩が小さく震えた。
「三度目で、ようやく全部思い出した」
視線を外さず、続ける。
「どうしても、止めたかった」
それだけを言った。
部屋の中は、息をひそめたように静まり返っている。
茜音の涙は、まだ止まらなかった。




