第57話
社長室の空気は、まだ夜の疲労を残していた。
奈菜は立ったまま、指先をぎゅっと握りしめている。
田口は少し後ろに控え、静かに成り行きを見守っていた。
「私にはこの仕事は向いていないことがわかりました。
本当は社長とずっと働きたかったし、一緒に居たかったんですけど……」
声が震えている。
「でも……先日行った児童養護施設が、私がお世話になったところと似てて……」
奈菜はゆっくりと言葉を探す。
「私は高校生という、ちょっと中途半端な時期に入ったんです。
子供でもなく、大人でもなくて。
どう過ごしていいかも分からないし、どこまで人に頼っていいかも分からなくて……」
目線が足元に落ちる。
「早く出なきゃって思いながら、でも出たらどうすればいいのか分からなくて。
ずっと、どこにも立ててない感じでした」
社長室は静まり返っている。
「社長と出会って、違う世界に飛び込んだみたいでした。
ちゃんとした会社で働いて、きれいな服を着て。
でも……私の気持ちは、まだあの頃に置いてきたままみたいで」
小さく息を吐く。
「養護施設の子供たちを見たとき、親を亡くしたばかりの自分が、まだそこにいる気がして……」
その言葉は、強がりではなかった。
「一度、ちゃんとあの気持ちと向き合わないと、前に進めない気がしたんです」
田口がわずかに視線を上げる。
「たまたま、あの施設で職員募集の張り紙を見つけました。
すぐに応募するかはまだ決めていません。でも……あそこにいると、変に背伸びしなくていい気がするんです」
奈菜は照れたように笑う。
「こういう世界へのあこがれはありました。でも、あこがれと現実は違うってことも、ここでよく分かりました。
もしかしたら、シンデレラみたいになれるかもって思ったこともありましたけど……そんな簡単じゃなかったですね」
その笑みはどこかぎこちない。
田口が陸翔を見る。
陸翔はしばらく黙っていた。
否定も、引き止めもできない。
奈菜の言葉は、逃避ではなく、諦めでもなく、ただ現実だった。
「本人がそれでいいと思うなら」
それだけを言う。
奈菜は深く頭を下げた。
「最後にご迷惑をおかけしました。でも……今日のことで、ちゃんと区切りをつけられた気がします」
区切り。
その言葉が胸に残る。
「田口、あとは頼む。もう遅いし送ってやってくれ」
二人が社長室を出ていく。
扉が閉まると、急に静かになった。
奈菜がいなくなる。
今日、レストランで。 茜音と向き合うはずだった時間。
結局、自分はあの席に戻れなかった。
理由はあった。 会社の問題も、本当に緊急だった。
だが、それでも。
茜音の前に座っていたときの、あの距離。 あの静かな目。
あの場を離れた瞬間、何かが決定的に遠ざかった気がしていた。
奈菜がここを去れば、状況は変わるだろうか。
いや、変わらない。
弁護士に離婚を相談しているのだ。 茜音の決意は、きっともう揺らがない。
守りたいと願うほど、
自分の手の中には何も残っていないことがはっきりする。
社長室の灯りの下で、陸翔は目を閉じた。
静寂だけが、そこにあった。




