第51話
陸翔は、すぐにでも茜音に連絡をしたかった。
だが、できなかった。
怖かった。
もし見ていたのだとしたら。
もし、あの一瞬がすべてだったのだとしたら。
陸翔は来客用の酒を取り出し、そのまま口をつけた。
喉が焼ける。
「……俺は、一体なにをしている」
奈菜を選ぶつもりはない。
流されるつもりもない。
それなのに、気づけば状況だけが整っていく。
どのくらい経ったのか分からない。
玄関の音がした。
重い瞼を開ける。
人影が陸翔の側に立つ。
「……茜音……帰ってきてくれたのか……」
夢の続きのように、そう思った。
人影は眉を寄せて近づいてくる。
「どうしてお酒が弱いのにこんなに飲むの? ほら、早く寝ないと」
腕を引かれ、寝室へと導かれる。
「お願いだ……ずっとそばにいてくれ」
自分でも情けない声だった。
「いるから。だから寝て」
と静かに言った。
その声を最後に、意識は落ちた。
翌朝。
目を覚ますと、隣は冷たかった。
「……茜音?」
胸がざわつく。
そのとき、外から物音がした。
何かが落ちた音。
人の気配。
陸翔は寝室の扉を開ける。
「……何? どうした?」
自分の声が場違いに響く。
リビングの空気が、凍りついていた。
玄関の前に立つ茜音。
蒼白な顔。
その視線の先に――
リビングに立つ奈菜。
茜音のパジャマを着たまま。
一瞬、理解できなかった。
なぜ奈菜がいる。
なぜその服を着ている。
床には、写真立ての破片。
「し、社長……」
奈菜が反射的にこちらへ駆け寄り、隣に立つ。
その瞬間。
頭の奥で、羽音が鳴った。
強く。
まるで思考を遮るかのように。
正面には茜音。
隣には奈菜。
あまりにも出来すぎた構図。
「あ……茜音……」
言葉を探が、続かない。
茜音は何も言わずに、ただこちらを見ている。
説明しろと言う目でもなく、問い詰める目でもない。
ただ、理解が追いつかないという目。
その視線に、陸翔は動けなくなる。
次の瞬間。
茜音はバッグを拾い上げると、踵を返した。
「待て――」
声は届かない。
玄関のドアが閉まる。
羽音が、すっと消えた。
残されたのは、静寂だけだった。
陸翔はゆっくりと奈菜を見る。
「……なぜ、そのパジャマを着ている」
奈菜はびくりと肩を震わせた。
「ち、違うんです……あの……夕べ、大奥様から連絡があって……社長が具合が悪いみたいだから看病してほしいって……」
「ここにあるものは使っていいって言われて……その……着替えを……」
「……それで、その服を……」
陸翔の視線が、床の破片へ落ちる。
「……じゃあ、これは何だ」
奈菜の息が詰まる。
「ピアスを……落としてしまって……それを拾おうとして……」
「写真立てを持ち上げたときに、玄関の音がして……」
「振り返ったら……奥様がいて……びっくりして……」
「そのまま……落としてしまって……」
「……わざとじゃ、ありません……」
言葉が途切れ、静寂だけが残る。
陸翔はゴミ箱を見下ろした。
割れたガラスの下に沈む、二人の笑顔。
胸が締めつけられる。
何を見せた。
何を信じさせた。
陸翔は震える手でスマートフォンを掴む。
茜音に電話をかける。
呼び出し音が鳴る。
電源は入っている。
だが、出ない。
もう一度。
もう一度。
「茜音……頼む、出てくれ」
祈るように、何度も発信ボタンを押した。




