第50話
翌朝、田口が迎えに来ると、奈菜は当然のように後部座席へ回り込み、陸翔の隣に座った。
昨日と同じ配置だった。
陸翔は一瞬だけ視線を向けたが、何も言わなかった。
仕事としての同行だ。そう自分に言い聞かせる。
児童養護施設に到着すると、敷地内は思いのほか賑わっていた。
中庭には色とりどりの屋台が並び、焼き菓子の甘い匂いと、焼きそばの湯気が混じり合っている。
子どもたちの笑い声が、春の空気を軽やかに震わせていた。
陸翔は主催者や顔なじみの取引先に挨拶をし、そのまま自然と輪の中心に立つ。
企業の代表として、支援者として、求められる役割を淡々と果たす。
気づけば、奈菜が隣に寄り添うように立っていた。
「これがお噂の奥様ですか?」
取引先の一人が、冗談めかしてそう言った。
陸翔は即座に否定しようと口を開きかける。
その瞬間、頭の奥で、微かな羽音がした。
耳鳴りにも似た、小さなざわめき。
「奥様が大変お美しい方で、牧田社長が溺愛されているのは有名ですからね」
場が笑いに包まれる。
「そんな噂、恥ずかしいです」
奈菜が控えめに笑いながら応じた。
違う、と言わなければ。
陸翔はそう思うのに、喉がひどく乾いて声が出ない。
羽音はすぐに消えたはずなのに、思考だけが一拍遅れる。
そのとき、奈菜がそっと陸翔のスーツの裾を引いた。
小さな仕草だった。
だが、その感触はあまりにも覚えのあるものだった。
茜音が、人混みの中で自分を呼ぶときに、いつもする癖。
陸翔は反射的に膝を折り、奈菜の口元へ耳を近づける。
そして、無意識に腰へ手を回した。
その瞬間。
頭の奥で、はっきりと羽音が鳴った。
一瞬だけ、視界が揺らぐ。
「社長」
背後からの田口の声で、陸翔は我に返った。
隣にいるのは茜音ではない。
奈菜だ。
陸翔はすぐに手を離し、半歩距離を取った。
自分の行動が信じられなかった。
なぜ、間違えた。
なぜ、同じように触れた。
胸の奥がざわつく。だが羽音はもう鳴っていない。
「社長、そろそろお時間です」
田口の言葉に、陸翔は頷いた。
「水川さんは?」
「私、もう少しここにいてもいいですか?」
奈菜は子どもたちの方を見ながら答えた。
「構わない」
短く言い、陸翔は田口と車へ向かった。
車に乗り込み、ドアが閉まった瞬間。
ポケットの中で、スマートホンが震えた。
取り出す。
画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねた。
茜音。
《ごめんなさい。体調が悪くて、今日は行けそうにありません》
短い文章。
それだけで、胸が強く締めつけられる。
体調が悪い?
陸翔は無意識に視線を落とした。
さきほどの光景が、脳裏に焼きついている。
言いようのない違和感と、拭えない不安。
「……戻りますか」
田口の声が静かにかかる。
「……いや」
短く答えた。
何かが、噛み合っていない。
理由の分からないまま、胸の奥だけがざわついている。
車はそのままマンションへ向かった。
部屋に戻ると、静けさが広がっていた。
上着を脱ぎながら、深く息を吐く。
ネクタイを緩める手が、わずかに止まった。
スマートホンが震える。
着信。
「……田口か」
『社長』
声が先ほどより低い。
「何だ」
『今日のチャリティーバザーですが……奥様がいらしていたとのことです』
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……何?」
『主催は義姉様のご実家です。奥様が会場にいらしたと、別の社員から報告がありました』
血の気が引く。
「あそこに、いたのか」
『……はい』
喉が渇く。
「それで、茜音は」
『途中で体調を崩されたようで、女性に支えられて帰られたと』
静寂が落ちる。
もし。
あの瞬間を、見ていたとしたら。
奈菜の腰に手を回した、あの一瞬を。
陸翔の胸に浮かんだのは、言葉にならない絶望だった。




