第48話
会社に戻ると、奈菜が秘書課の一角に立っていた。
新しい机の前で、慣れない様子で書類を整えている。
視線が一瞬だけ交わる。
だが陸翔は何も言わず、そのまま素通りして社長室に入った。
扉を閉めた途端、外線が鳴る。
受話器を取ると、アメリカ工場の責任者だった。
設備トラブルでラインが停止しているという。
状況は深刻だった。
電話を切ると、すぐに田口を呼ぶ。
「アメリカ工場でトラブルだ。すぐに飛ぶ。最短の便を押さえてくれ」
「承知しました。期間はどのくらいになりそうでしょうか」
「……一週間はかかる」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がわずかに沈む。
「私も同行しますか?」
田口の問いに、陸翔は首を振った。
「いや、俺一人で行く。お前はこっちに残ってくれ」
奈菜の姿が頭をよぎる。
もし自分も田口も不在のときに茜音が会社を訪ねたら——
「……田口」
声を落とす。
「彼女のことを頼む。茜音に誤解をさせたくない」
「はい。かしこまりました」
短い返答だった。
陸翔はスマートホンを取り出す。
茜音へメッセージを打つ。
『会社でトラブルがあって、明日から一週間、アメリカに行くことになった』
続けて送る。
『帰ってきたら、必ず連絡する』
指が止まる。
それでも、もう一文だけ打つ。
『無視しないでほしい』
送信。
既読はつかない。
そのまま画面を伏せた。
こんな状況で日本を離れることになるとは。
焦りだけが残る。
急いで帰宅し、出張の準備を始めた。
スーツケースを広げる。
一人で準備をするのは、いつ以来だろう。
最近は、茜音が何も言わず整えてくれていた。
ネクタイの色も、シャツの枚数も。
それが当たり前だった。
部屋は驚くほど静かだ。
生活の気配が消えている。
クローゼットを開け、スーツを選ぶ。
そのとき、一着足りないことに気づく。
ワインをこぼされた夜に着ていたスーツ。
あれがない。
あのスーツは、結婚してすぐ、茜音と選びに行ったものだった。
「これがいいと思う」
そう言って笑っていた。
その記憶に触れた瞬間、頭の奥で、かすかな羽音が鳴った。
陸翔は目を閉じる。
深く息を吐き、別のスーツを手に取った。
一週間。
その間に、さらに距離が広がるのではないか。
スマートホンを見る。
返信はない。
静まり返った部屋に、自分の呼吸音だけが響いていた。




