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第47話

茜音は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


だが、数歩手前で足を止める。


夜明けの光が、淡くその横顔を照らしていた。


「茜音……」


陸翔は、慎重に声をかける。


茜音は視線を落としたまま言った。


「……心の整理が、できていないの」


静かな声だった。


責める色も、怒りもない。


それが、かえって遠い。


「まだ、話ができそうにない」


一呼吸置いて続ける。


「だから……今日は帰って」


「茜音――」


思わず名前を呼ぶ。


「……お願い」


その一言は、わずかに震えていた。


陸翔は堪えきれず、一歩踏み出す。


そして茜音の腕を掴んだ。


触れた瞬間、確かにそこに温もりがあった。


だが次の瞬間、その手は迷いなく振り払われる。


温もりが、すっと離れていく。


その刹那。


頭の奥で、かすかな羽音が鳴った。


小さく、鋭く。


それは痛みではなく、警告に近い感覚だった。


——このままでは、本当に失う。


言葉より先に、本能がそう告げる。


だが陸翔は、何も言えなかった。


説明も、弁明も、うまく形にならない。


次の瞬間、身体のバランスが崩れた。


無意識に怪我をした足へ重心がかかる。


「……っ」


鋭い痛みが走り、息が詰まる。


羽音はそこで途切れた。


現実が、容赦なく押し戻す。


「……え?」


茜音が驚いたように顔を上げる。


その視線の奥に、一瞬だけ心配が宿る。


「奥様、社長は昨夜、足を怪我されています」


田口が駆け寄り、陸翔を支えた。


「大丈夫だ……心配ない」


歯を食いしばりながら言う。


「本当に、やましいことは何もなかった」


それだけは伝えなければならない。


「信じてほしい、茜音」


痛みを押し込み、まっすぐに見つめる。


茜音はわずかに目を閉じた。


「……少しだけ」


小さな声。


「少しだけ、時間をください」


そして、ゆっくり顔を上げる。


「今は……何も考えられないの」


拒絶ではない。


だが、受け入れでもない。


それだけ言うと、茜音は振り返った。


ゆっくりと家の中へ戻っていく。


扉が閉まる音が、朝の空気を震わせた。


追いかけたい。


だが足は動かない。


痛みと、さきほどの感覚が胸に残る。


「……戻りますか」


田口が静かに言う。


陸翔はしばらく扉を見つめたまま、やがて頷いた。


車内は重い沈黙に包まれる。


エンジン音だけが続く。


しばらくして、田口が口を開いた。


「水川さんの住まいが決まりました。社長と同じマンションです」


陸翔は顔を上げる。


「同じマンション? なぜだ?」


「会長のご指示です」


淡々とした説明。


「そして仕事は、私の下でアシスタントを務めることになりました」


「他に部署はいくらでもあるだろう」


思わず声が強くなる。


「なぜわざわざ俺のそばに配属させる」


脳裏に浮かぶのは、振り払われた茜音の手。


「もし茜音が知ったら……これ以上誤解が広がるのだけは避けたい」


それが本音だった。


「社長、申し訳ありません。すべて会長の指示です」


田口は視線を前に向けたまま答える。


陸翔は、何も言えなくなる。


自分の意思とは別のところで、物事が決まっていく。


用意された住まい。


用意された役割。


そして、遠ざかる茜音。


車窓の外を流れる景色が、やけに速く感じられた。


足の痛みよりも、胸の奥の静かな不安の方が、重かった。

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