第45話
弁護士との話し合いが続く中、静まり返った部屋に突然携帯の着信音が響いた。
全員の視線が一斉に音の主へ向く。
「……す、すみません。私です」
奈菜が慌ててバッグからスマートホンを取り出す。
弁護士が穏やかに言った。
「どうぞ、出てください」
奈菜は小さく会釈し、席を立つ。
だが部屋は広くない。通話の声は自然と聞こえてきた。
「今週中に出ていくって話だったろ?困るんだよ。来週には取り壊しが始まるんだからさ」
荒い男の声が漏れる。
奈菜の声はか細い。
「すみません……次が決まらなくて。もう少し何とかなりませんか?」
「無理だよ、無理。来週から工事だ。残ってる荷物はそのまま一緒に壊すぞ」
一方的にまくしたてる声。
奈菜は電話を持ったまま、深く頭を下げている。
「すみません。必ず探しますから……もう少しだけ」
やがて通話が切れた。
部屋の空気が重くなる。
奈菜は小さく息を吐き、席へ戻った。
陸翔の母が声をかける。
「今の電話……どうしたの?」
奈菜は少し俯き、それから顔を上げた。
「実は、今住んでいるアパートが取り壊しになるんです。退去するように言われていて……でも、今の条件に合う部屋が見つからなくて」
弁護士が父を見る。
陸翔はそれを聞き、反射的に口を開きかけた。
「やはり、補償を——」
だがその瞬間、頭の奥で微かな羽音のようなものが鳴った。
じり、と神経をかすめる音。
視界が一瞬揺らぐ。
言葉が止まる。
頭を振っても消えない。
——あの夜と同じだ。
何かが、自分の中でざわつく。
そのときだった。
「なら、うちで住まいを用意しましょう」
静かな声で母が言った。
部屋が一瞬凍る。
陸翔は母を見た。
「母さん……?」
奈菜は慌てて首を振る。
「いえ、本当に結構です。アルバイトも……実は昨日で解雇になってしまって。家賃が払えるかどうかも分からない状態で」
その言葉に、母は間髪入れず続ける。
「だったら仕事もこちらで用意すればいいわ」
軽く手を打つ。
「会社で事務の補助でも何でもあるでしょう。住まいと仕事、両方こちらで整えます」
父は無言で頷いた。
「……母さん、ちょっと待ってくれ」
陸翔が声を上げた瞬間、再び頭の奥がざわめいた。
小さな羽音が無数に広がるような感覚。
思考が乱される。
「田口」
母がきっぱり言う。
「今言った通り、水川さんに住まいと仕事を手配してちょうだい」
「承知しました」
田口は一瞬だけ陸翔を見たが、すぐに視線を落とした。
母は弁護士へ向き直る。
「誓約書にこの件も盛り込んでおいてくださいね」
そして父に声をかける。
「あなた、帰りましょう」
まるで話は終わったと言わんばかりに、二人は部屋を出て行った。
ドアが閉まる。
残されたのは、陸翔と奈菜、そして田口。
奈菜は何度も頭を下げている。
「本当に……申し訳ありません」
その姿を見ながら、陸翔の胸に重い感覚が沈んだ。
何かが勝手に動き出している。
用意された居場所。
用意された役割。
それは、誰のためのものなのか。
頭の奥のざわめきは、まだ消えない。




