第44話
陸翔はその後も茜音にメッセージを送り続けた。
返事はない。 既読にもならない。
何度も画面を見つめ、何度も閉じる。
足の痛みがじわりと広がる。
それでも、茜音の実家へ向かおうと車に乗った。
だがアクセルを踏み込む力が入らない。
太ももに走る激痛が、現実を思い出させる。
——今は無理だ。
翌朝、田口が迎えに来た。
車内で陸翔は言う。
「会社の前に、茜音の実家へ行きたい」
田口はわずかに間を置いた。
「社長、申し訳ありません。本日は会長の指示でどこにも寄らず出社するようにと」
それ以上は言えないという口調だった。
陸翔は黙り込む。
出社すると社員たちの視線が集まった。
足を引きずる姿にざわめきが起こる。
だが気にしている余裕はない。
最上階の社長室へ向かう。
部屋にはすでに両親が揃っていた。
父が言う。
「隣の部屋に彼女と弁護士が待っている。すぐ始める」
陸翔は無言で隣室へ入った。
そこにいたのは、小柄な女性だった。
控えめな服装。 まだ学生と言われても違和感のない雰囲気。
弁護士を挟み、向かい合って座る。
「こちらとしては、水川奈菜様のご要望には応じる用意があります」
弁護士が口を開く。
「いいえ、必要ありません」
奈菜は静かに答えた。
「何もなかったのですから」
父が弁護士を見る。
「そういうわけにはいきません」
奈菜は一瞬視線を落とし、そして陸翔を見た。
「昨夜もお話しましたが、社長には以前二度助けていただきました。その借りを返せたと思えば、それで十分です」
陸翔は眉を寄せる。
「……二度助けたというのは、覚えがない」
奈菜は小さく微笑んだ。
「一度目は会食パーティーで、私がワイングラスをお配りしていた時です。バランスを崩して社長にワインをかけてしまいました」
赤ワインがスーツにこぼれた光景がよみがえる。
確かにあった。
「二度目は、ホテルの廊下で酔ったお客様に絡まれていたところを助けていただきました」
——廊下。
女性スタッフの腕を掴む男。
それを払いのけた自分。
そこまでは思い出せる。
だが目の前の顔と結びつかない。
陸翔はまじまじと奈菜を見る。
記憶の中の輪郭は、もっと曖昧だった。
「……きっと覚えていませんよね」
奈菜は静かに言う。
「でも私は嬉しかったんです。守られている気がして」
「高校生の頃に両親を亡くし、その後は施設で育ちました」
部屋の空気が重くなる。
「だから、身内のように優しくしてくださる方に出会えた気がして……」
言葉は控えめだった。
依存とも、期待とも断定できない。
だが陸翔の胸に残るのは、別の感覚だった。
——違和感。
助けたこと自体は思い出せる。
だがそれは、特別な行為ではない。
その場で当然のことをしただけだ。
なのに、なぜあの夜、自分は足を刺したのか。
何を止めようとしたのか。
奈菜に悪意はない。
それは分かる。
それでも、どこかが噛み合わない。
そして、頭に浮かぶのは——
何も言わずに去った茜音の背中だった。
陸翔は深く息を吸った。




