第43話
陸翔の告白
田口に支えられながら、陸翔は両親とともにマンションへ戻った。
エレベーターの中は静まり返っていた。
足の痛みよりも、胸の奥のざわつきの方が強い。
部屋のドアが開く。
真っ暗だった。
冷えた空気が流れ出る。
「茜音?」
呼びかける。
だが返事はない。
靴も、バッグも、そのままだ。 だが、そこに人の気配はなかった。
田口がそっと肩を支え、ソファーへ座らせる。
座りながらも、陸翔の視線は部屋の奥を探していた。
寝室のドア。 キッチンの影。 バルコニー。
いない。
スマートホンを取り出し、発信画面を開く。
そのときだった。
「まず今日あったことを話すぞ」
父の低い声が空気を止める。
「お前は何も覚えていないのか?」
陸翔は力なくうなずいた。
「……はい」
「田口。お前から説明しろ」
促され、田口は一歩前に出た。
秘書として冷静であろうとしているが、どこか硬い。
「社長は、飲み慣れないお酒を勧められ、体調を崩されました」
淡々と語る。
「私はフロントで部屋を取り、奥様に連絡を入れました。社長を部屋まで運び、その後、奥様を迎えにエントランスへ戻りました」
そこで一瞬、言葉が止まった。
父の視線が鋭く向く。
「……合流して部屋へ戻ったところ、女性が一人、部屋にいました」
陸翔の呼吸がわずかに乱れる。
「女性?」
「名前は、水川奈菜さんといいます。ホテルでアルバイトをしているとのことです」
その名を聞いた瞬間だった。
――ぶわり、と。
耳鳴りのような音が、頭の奥で炸裂した。
まるで無数の虫が飛び交っているような、そんな羽音が。
思わず、こめかみを押さえる。
(……なんだ、今のは)
知らないはずの名前。
なのに、胸の奥が、ざわりと揺れる
「彼女は、ルームサービスを届けた後、具合の悪い社長を見つけ、部屋に戻したと説明しています」
田口の額にうっすら汗がにじむ。
母が静かに問う。
「それで、彼女は何と言っているの?」
「……事故であり、何もないと」
「何もない?」
父の声が低くなる。
「はい。以前、社長に二度ほど助けられたことがあり、その恩を返しただけだと」
助けた。
その言葉に、陸翔はゆっくり首を振る。
「覚えがありません……」
はっきりと思い出せない。
名前も顔も、状況も。
頭の中は霧がかかったようだった。
父がさらに問いかける。
「なぜ自分で足を刺した」
空気が一変する。
陸翔は視線を太ももに落とした。
包帯の奥で、鈍い痛みが脈打つ。
「……いけないと思ったんです」
言葉を探しながら続ける。
「このままではいけないと。流されそうになる自分を、止めないといけないと……咄嗟に」
両親はすぐには何も言えなかった。
自分でも理解できない衝動。
だが確かに、“何か”に抗おうとした記憶だけが残っている。
父がやがて口を開いた。
「明日だ」
重い声。
「明日、お前のオフィスで水川さんと弁護士立ち会いのもと話をする。そのつもりでいろ。田口、準備しておけ」
「はい」
両親は立ち上がる。
その背中に、陸翔は思わず声をかけた。
「……待ってください。茜音は? 茜音はどこに行ったんですか」
母の表情が曇る。
「茜音さんには、あの後から連絡がつかないの。電源を切っているみたいで。ご実家には、連絡があれば教えていただけるようお願いしてあります」
それだけ言い、二人は帰っていった。
ドアが閉まる。
部屋は再び静まり返った。
陸翔はすぐに茜音へ電話をかける。
呼び出し音は鳴らない。
無機質な音声だけが流れる。
——電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります。
通話終了。
画面が暗くなる。
真っ暗な部屋に、自分だけが取り残されている。
知らなかった名前。
抜け落ちた記憶。
そして、繋がらない茜音。
静けさだけが重く沈んでいた。




