終章 夢みた女官と彼女の王子様
室内から前庭を眺めると、池のそばに美しい藤の花が咲いている。
ソユンの宮廷服を思わせるその色に、メイメイはぼうっと目を奪われた。
木に絡まり、その花弁は重たげに垂れ下がっている。風を浴びてゆらりと揺らめき、近くに行けば甘い香りが漂っていそうだ。
思い入れのある南部の別邸で、たくさん会話を交わした。
「ソユン様とお会いしたから、わたしは変われたんだとつくづく思います。それも素敵な方向に」
出会いから辿りながら、ついしみじみと口にした。
「そう? 何か力になれていたなら嬉しいけれど」
「ソユン様のおかげで、みんなと気軽にお喋りできるようになったんですよ! 趣味の集まりや休日のお散歩も、ソユン様がきっかけです」
一緒に飾り紐を結ったのが楽しくて、実家に戻ったら編み物の会にも参加するのだと告げる。
真向かいに座るソユンは、うんと柔らかく目を細め、それは何よりだと言った。
「王都に来るまでは、夢にも見なかった生活です。出掛けたり誰かと喋ったりすることが、こんなにも楽しいことだと知りませんでした」
外に視線をやると、空にうっすら茜色が射していた。
一度お茶を口に含んで喉を潤し、言葉を続ける。
「あとは、……人を好きになることが、こんなにも毎日をきらきらさせるものだというのも、初めて知りました」
また喉が渇いて、お茶を飲み干した。
茶碗を支える手が少しだけ震えて、降ろすときにかちりと音を立てる。
メイメイはゆっくり息を吸い、まっすぐソユンの瞳を見つめた。
「……ソユン様のことは変わらず大好きです。だからこそ、わたしは恋人として過ごした日々を今日でおしまいにしようと思います」
――ついに言ってしまった。
穏やかに了承したソユンの表情が、しかしその直前、ほんの刹那寂しそうに陰ったのを見た。
荒波のような感情が胸にこみ上げる。
それを紛らわせるために、次の幸運の女性は誰なんでしょう、と軽口をたたいた。
「ソユン様の恋人枠は予約が殺到しているだろうから、空いたらまたすぐ埋まってしまいそうですね!」
「……今言うのも変かもしれないけれど、明確に恋人という関係になったのは赤毛ちゃんしかいないよ」
やわりと眉を下げてそう言われ、今度は温かなものが胸を満たす。
そうやってメイメイを特別にしてくれたから、今日を笑顔で迎えられたのだ。
「それは嬉しいことが聞けました……。じゃ、じゃあ、ソユン様は今日まで、わたしだけの恋人だったんですね。わたしだけの……、王子様」
初めて会った時から、メイメイが大変な思いをしていると、いつでも助けに来てくれた。
宮廷生活を夢のように素晴らしいものにしてくれた。
箱入りメイメイが憧れていた、本の中の王子様のように。
「う……ん、そうだね」
ソユンにとっての王子は主ただ一人だから、きっとその呼称にはこだわりがある。
一瞬言葉に詰まった現実的なソユンが面白くて、思わず声を出して笑ってしまった。
その後も止まないメイメイの話を、ソユンはずっと聞いてくれた。
いつものように優しい相槌を挟んで、メイメイの感情を取り零さずに。
――――メイメイは明日で宮廷の女官職を辞し、王都を去る。
明日は片付けや引き継ぎをして、夜にはお別れ会が開催される。明後日には同じく実家に帰ることになったアンリと共に、のんびり帰路につく予定だ。
おそらくこの一時が、気兼ねなく二人でいられる最後の瞬間。
気づけば外はすっかり橙色に染まっている。
名残惜しさを振り切るように、メイメイはばっと立ち上がった。
もう、時間だ。
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら廊下を歩き、馬車の前で足を止める。
「……最後に一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんでもいいよ」
そう言った彼の目は、とても温かい。
「抱きしめてください。この数年、素敵な王都での思い出の締めくくりに」
すぐに、しっかりと抱き寄せられた。
嗅ぎなれた、爽やかでどこか甘い香り。背中に回ったいつもより強い腕の感触。
頬に当たる彼の胸からは、静かな鼓動が聞こえる。
これらをこんなに身近に感じられるのも、今日限り。
「……さみしいな。君のこと、とても好きだったよ、メイメイ」
静かに漏れ出た、物憂げで、優しい声。
鼻の奥が痛い。目頭が熱い。
耐えきれなかった涙が、柔らかな絹に染みていく。
(それでも、あなたの瞳に映るのは、あなたがいつか好きだと言ってくれた笑顔のわたしでいたい)
大好きな、初恋のひとへ。万感の想いを込めて。
メイメイはめいっぱい笑った。
「わたしも、ソユン様のことが大好きでした! 一緒に過ごした日々が、本当に幸せでした」
目尻をぬぐう指先と、額にそっと送られた口づけが、あまりにも温かい。もう涙を止めようがなかった。
「これからも、ずっと大好きです。今までありがとうございました!」
恋が終わってしまう時というのは、とても辛くて切なくて、どうにも耐えられないようなものだと思っていた。
湿り切った手巾を片手に、馬車に揺られる。
見慣れた景色を窓からぼんやりと眺めながら、そっと胸を押さえた。
(それでも今は、なんだか満足しているような、不思議な感じもする……)
宿舎よりだいぶ手前で馬車を降りて、流れる涙をそのままに少し歩く。
先ほどよりも空の色が濃くなり、茜色にうっすら紺が射している。今日はひとけのない道も、いつも通り灯りがこうこうと照らしていた。
鼻腔を擽った大好きな香り、指にはめられた金属の感触、耳元でしゃらりと鳴る音。
それらがメイメイに涙をこぼさせ、メイメイを温かく励ます。
「あの、大丈夫ですか……?」
「わっ……!」
突然掛けられた声に思わず飛び上がった。
振り返ると、見覚えのある武官が立っている。二人組で見回り中だったようだが、もう一人はすぐに去っていった。
驚かせてすみませんと困り顔でおろおろしているので、大丈夫だと答える。
「よかったら、これ……」
手の上にあるのは、あの日メイメイが差し出したように真新しい手巾だ。
顔を見返すと、少し慌てたように言葉を付け足す。
「えっと、以前手巾をいただいて、それがとても新しそうだったので、いつかお礼にと……」
ちょうど今なら役に立ちそうですし、と言った後で、はっとして固まってしまった。
確かにその通りですねと笑って見せると、今度は嬉しそうに目元を染める。
「ありがとうございます。……今更ですが、気になっていたので。お名前は何というんですか?」
新しい何かが、始まるかもしれない。
――――これは、三年と少しかけて育んだ、わたしの初恋の話。
大好きな王子様と出会ってから王都で過ごした、夢あふれる日々のお話。
本編としては最終回です。
ここまでメイメイたちを見守ってくださりありがとうございました!
また後日、活動報告等で改めてお礼をお伝えできたらと思います。




