10-3. 王子の来訪と忍び寄る声
「王子殿下のお越しです……!」
「ジフン様が……?」
さっと真剣な表情を浮かべて扉へ向かい、ソユンは廊下にいた彼らから報告を受け始めた。
交わされる声は小さく、さすがによく聞こえない。
皿を片付けに来た使用人によると、どうやら夕刻に北部行政府で落ち合うことになっていたはずの王子が、急に来訪したらしい。
張り詰めた空気に、燻っていた熱も少しずつ引いていく。
一通り指示を出し終えたソユンに、メイメイはおずおずと声をかけた。
「ソユン様、その……。このまま残っていてもご迷惑になってしまいますし、わたしがいては、不都合なこともあるかもしれません。お茶もいただいたので、今日はもう失礼させていただきますね……!」
振り返ったソユンはふにゃりと眉を下げると、頬を優しく撫でてくれる。
心地よい感触に目を細め、その手にすり寄った。
「ごめんね。帰りの馬車はもう用意できたようだから、また今度」
「お気になさらないでください! わたしもまたご連絡します。その……」
きょろ、と視線を巡らせる。
使用人たちは皆、退室して扉の外。
ソユンをぱっと見上げると、頬を両手で包み、つま先を軽く伸ばして触れるだけの口づけをした。
「……お忙しいかと思いますが、頑張ってください!」
きょとりと瞬く彼の表情に、胸が温かいもので満たされる。
メイメイは赤らんだ顔のまま、彼に微笑んだ。
「ん、ありがとう」
ソユンは口元をふんわり綻ばせると、少し身をかがめた。
刹那、瞼にひんやりとした柔らかさを感じる。
いつもの甘やかな香りが近くなって、それから遠ざかる。
美しく高貴な人は、そのまま部屋を後にした。
外に出て、馬車へ案内されている最中。
冷静に考えれば余計なことだったが、その時のメイメイは先程までの余韻で頭がいっぱいだった。
別れ難い気持ちがぶり返し、つい最後に一度顔が見たいと思ってしまったのだ。
それで、先導する御者を呼び止めた。
「すみません、ほんの少しお待ちいただいてもよろしいでしょうか? その、ソユン様にお伝えしたいことがあって……」
「構いませんよ。ただ、もう面会なさっていてお会いできない可能性が高いです。よろしければ伝言承りますが……」
確かにそうだと、メイメイは思わず目を丸くした。
(で、でもちょっとだけ……、一目見るくらいなら……!)
そのまごつきを察してくれたのか、励ますように頷かれる。
「ご様子を窺うだけでもしてみましょうか? お供の侍女を呼んでまいりますよ」
親切にそう言ってくれたが、一緒に屋敷の扉まで行ってみると、急な王子の来訪に皆が忙しそうだ。
ちょっとしたわがままで気を遣わせるのも申し訳ない。
メイメイは御者を振り返ると、きりりと表情を引き締めて、一人で大丈夫だと告げた。
「すぐに戻ってまいります!」
邪魔になってはいけないので中には入らず、建物の外周をささっと早足で辿る。
(さっきの広間の辺りはもう誰もいなかった。高貴な人がいるなら少し奥まったところかな……)
当たりをつけて足を進めると、主屋の奥の部屋から仄かに人の声がした。
格子状の窓から薄明かりも漏れ出ていて、背伸びをしてこっそり覗いてみる。
はたしてそこには、メイメイに背中を向ける射干玉の髪の青年と、彼に面して座るソユンがいた。
何やらぴりりとした雰囲気の中、ふと沈黙が下りる。
息を潜めて、メイメイは物音すら立てていない。
それなのにほんの一瞬、あの美しい薄曇りの空がこちらを捉えたように感じた。
(気づかれた……?)
しかし、すぐに視線は彼の主に戻る。
――メイメイの存在など、気に留めるものでもないかのように。
「ジフン様、」
「分かっている」
ソユンがもの言いたげに口を開くと、すべてを言い切る前に言葉が途切れた。
二人の唇が重なったからだ。
王子がソユンの背中に腕を回して引き寄せると、応えるように手が静々と、王子の肩に置かれた。
ソユンの表情は、王子に隠れてもう分からない。
しばらく呆然と立ち尽くしていたが、風に吹かれた枯葉のかさりという音に、はっとした。
もう室内には視線を向けられない。
衝動のままに、メイメイはその場を走り去った。
息を切らして馬車の方へ向かう。
よほど悲壮な表情をしていたのか、御者が気遣わしげに声をかけてきた。
「主人には会えなかったのでしょうか?」
「え……、ああ、はい。でも大丈夫です! その、会えると思って意気込んでたから、……ちょっと残念だっただけで」
「そうですか。すぐにまたお目にかかれるといいですねぇ」
親切な励ましに、メイメイは口角を上げて答える。
馬車に揺られて宿舎へ戻る道すがら、メイメイの顔にはその笑みが貼り付いたままだった。
無意識に、耳飾りの入った箱を何度も撫でさする。
メイメイは、会いたかっただけなのだ。
甘露の飴を舌で転がすように、感じた名残惜しさで余韻に浸りたかっただけ。
――箱を撫でる手が止まった。
あの時メイメイに向けられたように見えた視線は、すぐに逸らされた。
ソユンが主を前に、メイメイを優先するわけがないことは知っている。
しかし、実際に目の当たりにすると、頭を殴られたような衝撃を受けた。
強い感情を他に捧げる人との間に、果たして恋は成立するのだろうか。
淀んだ気持ちが、胸の奥を少しずつ焼き付けていく。
今までは人目を避け、控えめな逢瀬を交わすだけだった。しかし、この頃からメイメイは少しずつ変わった。
外で会いたがったり、石英の宮のそばを意味もなくうろついてみたり、人目に付くような言動を取るようになったのだ。
一介の女官のそうした動きは、幸いにもほとんど誰も気にかけることはなかった。
それでも、ひっそりと動向に注目する者もいた。
宮廷の一室、中級文官の服を着た男たちが、異国語で言葉を交わす。
「この間、首席補佐官が別宅にあの女官と王子を呼び寄せたらしいじゃないか」
「最近はよく王子の宮付近にも出入りしている。誰彼構わない首席補佐官なら、いい隠れ蓑にはなりそうだな」
今も、赤毛の女官が浮かない顔で建物の外を通りかかった。彼女がやって来た方向には、ちょうど石英の宮がある。
それを横目に見て、男は肩をすくめた。
「とうとう男色の王子を動かす者が現れたのか……。もうしばらく、様子を注視しておこう」




