40-02
囚われの身でありながら、括約筋がまともに機能していることだけで感謝すべきだ 02
スパヴァデリアは、魔王が人を斬る瞬間を幾度となく目にしてきた。
いや、正確にはその「結果」を目撃してきたと言うべきだろう。
彼の主である魔王が指先をわずかに動かすだけで、対峙した者の首は地に落ちる。手首を軽く返せば、視界に入る全ての生物が瞬時に爆散し、死へと至る。
残されたのはいつも血の雨。
それゆえ、彼は未だに知らない。オルデイネ・ウ・ノウフォという男が、一体どのような理を以て生を屠るのかを。
そしてもう一つ、彼には解けない謎がある。
彼らの魔王は一体、いかなる理由……あるいは、いかなる心情で、殺戮を行うのか。
幾度か愉快な会話を交わした者でさえ、次にまみえる時には容赦なく殺す――そんなことは魔王にとって日常茶飯事だ。
なのに、聖女殿下と会った後は決まって不機嫌そうに眉をひそめる。それほど不快そうな様子を見せながら、魔王はなぜ、何度もわざわざ人族の国まで彼女を捜しに向かうのか。
深まる疑問の一方で、スパヴァデリアにはそれを問う勇気など微塵もない。しかし、かつてその禁忌に触れる勇気……あるいは無謀さを持ち合わせた者がいた。
それは数百年前、とある山の市場にある茶館での出来事だ。
その龍人は、杖をコツ、コツと鳴らしながら歩いていた。茶館に入り、当初は奥の窓際の席に座るつもりで足を運んでいたが、ふと足を止めると折り戻して、二階への階段を上がっていった。
そして、あろうことかオルデイネの対面に座ったのだ。
「あの人族の小娘と相まみえるたび、それほどまでに心根をかき乱し、不興をあらわにするというのに……。お主はなぜ、幾度も幾度も、わざわざその姿を追い求め、捜し出すというのだ?」
階段を上がった途端その光景を目にしたスパヴァデリアは、心臓が喉から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。
次の瞬間、あの龍人の首が飛ぶとさえ思ったのだ。
しかし、オルデイネはただゆっくりと瞼を上げ、その龍人を一瞥した。そしたら、すぐに興味を失ったように、出された茶菓子を黒文字の先で弄び始めた。
「スタパくん。これ以上、我を待たせるな。見過ごすにも限度があるぞ」彼は茶菓子を刺し、首を傾げてスパヴァデリアに微笑んだ。
「はい!」スパヴァデリアは小走りで駆け寄ると、抱えていた荷物を机に置き、静かに端の席に立つ。
それでも、彼は落ち着かない様子で魔王と龍人を交互に見ていた。「あの……」
「存分に語るがよい」オルデイネは、目の前に座る龍人の存在など初めからなかったかのように、悠然と許した。
許しを得たスパヴァデリアは、トコトコと魔王のそばへ寄ると、つま先立ちになり、口元を片手で隠しながら、そっと耳元で囁いた。
「龍人の前で、『龍王の片目』を持つ龍の首を置くなんて……喧嘩になりませんか?」
「ふふふ」その問いを聞き、オルデイネは愉快そうに拳を鼻先に当てて笑った。
「?」
魔王が何を笑っているのか理解できないスパヴァデリアだったが、魔王から「奴の面を拝み、その口でもう一度抜かしてみせよ」と命じられた。
彼は龍人の方へ向き直り、口を開きかけたところで、ようやく主の意図を悟った。
先ほどの密やかな囁きは、この龍人には筒抜けだったのだ。そのせいか、龍人の表情は言いようもなく邪険なものへと変わっていた。
「!?」スパヴァデリアはまたしても魔王と龍人を交互に見た。言うべきか戸惑う様子だったが、主の命令は絶対だと覚悟を決め、再び龍人に向かって口を開いた。
「龍人の前で、龍王の……」
「魔族はもはや、阿呆しかおらぬのか――」龍人はその言葉を打ち切った。物理的な力をもって。
彼が言い終えるより早く、激しい揺れが走り、茶館のあちこちに亀裂が走る。それでも龍人は悠長な態度を崩さず、言葉を継いだ。「――『謀略の帝』を王に戴いたというのに、この様か」
「ふぁ、ふははは」オルデイネはこの激震に揺るがされることもなく、まだ笑い続けている。
スパヴァデリアは、振動が広がるよりも一瞬早く、机に置いた「荷物」に目をやった。それが既に金の蝶となって消え去っているのを確認し、安堵のため息をつく。
そして、すぐさま反撃に転じた。
「爆ぜろ!」
その声と共に、龍人の周囲の空気が爆ぜた。巻き起こった塵煙が視界を覆い尽くすほどの、物量で押し切る苛烈な攻撃。地震は収まるどころか、次第にその勢いを増していく。
しかし、茶館から逃げ出した人々はすぐに異変に気づいた。揺れているのは、この茶館だけなのだ。
軋む木の音が骨まで震わせる中、建物は何かに押しつぶされるように屋根から崩壊していく。
「っふ」オルデイネの座る席だけは、まるで別世界のように静止していた。
崩れ落ちる梁も、砕け散る照明水晶も、彼を傷つけることは微塵も叶わない。全てが、あとわずかという絶妙な距離で彼の周囲を避け、虚しく地面を叩くだけだった。
「汝の眼も、節穴であったか?」オルデイネはそう言い、パッと軽くスパヴァデリアの口を叩いた。
その瞬間、スパヴァデリアは魔力が遮断されたのを感じ、攻撃は唐突に終わりを告げた。
「……魔王さま、俺の目はちゃんと見えていますよ」先の言葉が真実の問いだと思ったのか、スパヴァデリアは馬鹿正直に答えた。
そしたら、オルデイネは再び彼を見て、微笑んだ。
「……」あ、その笑顔はやばいやつだ。即座に理解したスパヴァデリアは、自分の口を一度叩くと、両手で固く封じた。
茶館の振動が止まり、塵煙が落ちると、再び龍人の姿が露わになった。
顔、首、腕――露出した肌の全てを龍の鱗が覆っている。流石は硬度を誇る龍鱗か、あるいは古の叡智を持つ龍族ゆえか、スパヴァデリアの攻撃を受けても外傷は見当たらない。
「ひっ」それでも、スパヴァデリアはニヤケた。
「……毒、か」龍人が口を開くと、垂れた鼻血を舌で舐めとった。「ついには人族の如き、姑息で回りくどい真似を覚えたと見える」
自らの血を味わうように唇をすぼめると、龍人の背後には光の絨毯を背負ったかのような薄い輝きが満ちた。
暫くして、血の色の去った龍人の顔色はもう元通りに戻った。
「ちっ、バレたか!次は解読できない毒の構成式を組んでやる」スパヴァデリアは魔王の背後に隠れ、顔だけを出して龍人を睨みつけた。
「オルデイネ・ウ・ノウフォ」龍人が正々堂々と魔王の名を呼んだ。
「……」スパヴァデリアは怯えたように顔を上げ、主の表情を窺う。
だがオルデイネは、少年の頭を軽く押し返すと、立ち上がり、茶館を出ようと歩き出した。
「深淵に呑まれ、戻れぬ道へ踏み出す前に。引き返す術はまだ残されているぞ」
オルデイネは龍人の言葉など聞こえていないかのように、階段を降りていく。スパヴァデリアもその龍人を一瞥し、急いで主の後を追った。そこで彼は気づく。
――魔王は最初から、一度も龍人の方を見向きもしていなかったのだ。
答える気などないのかと思われた矢先、オルデイネがようやく、龍人相手に口を開いた。
「汝が『王の力』を手放すと申すのであれば、教えられぬこともないがな」
前を真っ直ぐに見据えたまま、視線一つ動かさず、振り返ることもなく。オルデイネは淡々と告げた。
スパヴァデリアには、魔王の言葉の意味が理解できなかった。顔を覗き込んでも、主はいつも通りの気怠げな微笑を浮かべている。それでも、その一瞬だけ。彼は「魔王さまが、寂しそうな顔をした」と感じた。
その思いがよぎると、彼はすぐに「退屈の間違いだろう」と首を横に振って、とんでもない僭越な考えを打ち消した。
「あの人族の小娘――」龍人は一袋の貨幣を受付に置き、オルデイネの後ろ姿を見つめて再び問いかけた。「『聖魔』は、お主にとって何なのだ?」
「……」その言葉を聞き、オルデイネはゆっくりと瞼を上げた。午後の空は灰色に翳り、二つの月しか見えなくなったようだ。
「スタパくん。そろそろ、余の視界から失せよ」空を見上げたまま、彼は静かに、そう告げたのだった。
相変わらず笑みを含んだ、倦怠感の漂う口調。階段で固まっていたスパヴァデリアは、返事すら忘れてその場から逃げ出した。
結局、魔王さまがその問いに答えたのか、答えたとして何を語ったのかは、分からずじまいのままとなった。
数百年前から抱き続けているその謎を、今なお問う勇気など、あるはずもなかった。
しかし、先ほどの伝音で久方ぶりにあの「恐ろしい口調」を耳にした時、スパヴァデリアの脳裏に茶館での一幕が鮮烈に蘇った。そして、ようやく一つの事実に思い至ったのだ。
あの時、杖をコツコツと鳴らしながら歩いていた龍人――あれこそが、既に殞ちた龍王だったのだと。
……
数百年前の記憶が鮮烈に蘇るほど、オルデイネ・ウ・ノウフォの気配は鋭く尖っていた。
スパヴァデリアが過去の幻影に震えていたその頃。大陸を隔てた遥か西陸では、もう一人の少年が異様な光景を前に立ち尽くして、唖然した。
「魔王城が北大陸にあることくらいは、ご存知ですよね?」
紫煙の向こうから響くスピリトの声が、クレインを現実へと引き戻す。
スピリトは指先で弄んでいたキセルを、側衛が持ち出された装飾豊かな灰皿へとカッと打ち付けた。
吐き出された紫煙が、湿り気を帯びた空気にゆっくりと溶けていく。スピリトは薄く笑みを浮かべ、前へと歩んでいく。
西の大陸に踏み入ったクレインを待っていたのは、あまりにも不気味な静寂だった。
かつて空を突いていたであろう鉄筋の巨塔は、今や巨大な蔓に幾重にも巻き付かれ、絞め殺されている。割れた窓からは見たこともない極彩色の花々が舌のように突き出し、黒の道路を突き破って、本来なら共存し得ないはずの熱帯の巨木と寒冷地の高山植物が、狂った密度でせめぎ合っていた。
「そのさらに北方、竹林に囲まれた場所に一つの宮殿があります。名を『聖魔殿』と言う」スピリトは、まるで古い友人の居所を教えるような軽やかさで言葉を継ぐ。
だが、目の前の光景は「大森林」という言葉では生ぬるい。
それは、植物たちが文明の死骸である城を貪り食う、巨大な胃袋の中だった。
クレインが歩を進めるたび、足元の腐葉土からは錆びた鉄の匂いと、甘ったるい花々の香りが混ざり合った異臭が立ち上る。
「ああ、知らないのは当たり前です。『聖魔殿』は元々、南の果てにあるはずのものですからね」
クレインは、粘りつくような湿気に意識が吸い込まれる感覚を覚えた。
調和を欠いた植物の配置は、まるで狂った絵師が気まぐれに絵具をぶちまけたかのようで、視界に入れるだけで感覚が狂いそうになる。
しかし、その異常な彩の地域を抜けた先で、世界は一変した。




