03:あわや貢ぎ物
1日経っても世界はまるで変わっていなかった。ネフェルトは昨日と同じように寝台の中でゴロゴロと転がったり、乳をもらったりして過ごしていた。歩けないことはないと思う。まだ試す機会はないが、壁に手をついて歩けば隣の部屋くらいまでなら行けるだろう。今世の家族は過保護か?
赤子というのは実に退屈だ。この生活に早くも飽きが出始めた。せめて庭に行きたい、パセルやムトに会わせてくれ。それを伝える手段がないことがもどかしい。
退屈しのぎに手遊びなどをしていたところへ人が来た。乳母が応対に向かうも、少し言い合いになっているようだ。気になってそちらを見ていると、乳母の方もちらちらとネフェルトを気にかけていた。案ずるな、勝手に飛び降りたりはせぬ。やる時は見ている目の前でやることにする。乳母が叱られては気の毒だからな。
しばらく入り口で押し問答していたように思えたが、乳母が側に戻って来た。後ろに別の女が立っている。
「ネフェルト様、奥様からお呼びがかかりまして、少しだけ場を離れます。替わりにこの者が側におりますからね」
すぐに戻ります。と言い残して乳母は出ていった。まだ言葉を理解できないネフェルトに対しても、実に丁寧な乳母だ。しかし代理の者まで用意するとは。そこまで心配しなくとも……と呆れつつも、まだこの生の姿を確認していなかったことを思い出した。もしやこれは想像を超えたお転婆か?乳母の替わりにとやってきた女は、ネフェルトのすぐ側に立っている。信用がないのかもしれぬ……この歳で一体何をやらかしてきた?
それからはあっという間だった。男が突然早足で近づいてきたかと思うと、側にいた女の腹をいきなり殴りつけた。口に布を詰め込み、後ろ手に縛りあげて寝台の影に投げるように転がす。女はぴくりとも動かない。気を失ってしまったのか?呆気に取られて見ていると、その隣に同じように縛られた乳母も落ちてきた。なんだ?何が起こっている?これはまずい――
頭の中では逃げなくてはとわかっているものの、身体が動かなかった。恐怖ではないよ、赤子だからさ。例え逃げたとて逃げ切れる可能性は到底ない。参った。
私は寝台に敷かれていた布ごと丸められて、運び出された。足音が2つ。かなりのスピードで走っている。きつく巻かれていて声も出ない。
すぐにその足は止まった。どこかに降ろされたようで、急に視界が真っ暗になった。もぞもぞと手足を動かしてみるも、四方で壁に当たる。小さな箱の中のようだ。
顔はしっかりと見た。例の書記官の2人だ。ネフェルトを連れ出すのが目的か?バレるのも時間の問題だと思うが?どこへ連れていくつもりだ。
どこかへ売られるのだろうか。昨日この2人はネフェルトの瞳をやけに覗いていた。まあ、それも運命だ。売られたところで私は死にはしない。しかしこの身体、ネフェルトは長官の娘らしいぞ?攫ってお前たちの方は平気なのか?見つかれば命の保証はないだろうよ。そうだ、泣いてやろうか。まだ邸内のはずだ。大声で泣けば誰かの耳に届くだろう。そう決意して深く息を吸い込んだ――
ところまでは憶えている。なぜかそのまま意識が途絶えていた。
目が覚めた時には、母の腕の中にいた。誘拐は失敗に終わったようだ。一時は覚悟したものの、どうせ生きるなら少しでもマシな道を選びたい。奴隷よりお嬢様の方がよほど当たりだ。
母の目元は赤く腫れているようだった。そして私は少し頭が痛い。
夜、この夜は父と母の寝台に寝かされた。ネフェルトは昼間たっぷりと眠ったおかげか、まだ眠気が来ていなかった。初めて見る父の腕に抱かれて、大人たちの会話を聞くことができた。この父が長官?武人の間違いでは?と思ったことは、大事なことではないので黙っておく。
「目の前で引き裂かなかった儂を褒めてくれ、タイア」
……父よ、やはりそなたは転職した方がよいのでは?この時代いくらでも戦はあろう。武功を立て、歴史に名を刻むことも夢ではないと思うぞ。
タイアと呼びかけられた母は、穏やかに父を労っている。なんだかんだ言って、妻の言うことに耳を傾ける夫婦は上手くいく。この夫婦もそのようだ。寝台に上がっても尚、怒りが鎮まらないようだった父が、徐々に落ち着きを取り戻しているように感じる。
「何故ネフェルトを狙ったのかはお聞きできたのですか?」
母が尋ねたことは、私も気になっていたことだ。まだ何の力もない、されど有力者の娘だ。貧民を連れ去るのとは事情が違う。
父はそこでしばし言葉に詰まった。理由はネフェルトが起きているからではないだろう。赤子には到底理解できない前提で2人は話し続けている。父はすっかり勢いを失くしてしょんぼりと語り始めた。
「儂も悪かったのだ。ネフェルトが生まれた時、それは美しい瞳だと自慢して回っただろう?」
ネフェルトは澄んだ青い瞳を持って生まれてきたのだそうだ。それは家族の誰とも違い、大変珍しかったものだから、父は方々で赤子の自慢を触れ回ったらしい。それが、王都にまで届いてしまったのだね。その珍しい瞳を持つ赤子をヒッタイトへの贈答品のひとつにと画策した国庫書記官の指示にて、配下の書記2名が実行するべくこの邸に来たという。パセルは2人のことを書記官だと言っていたが、父の言葉を聞いていると、書記官と書記は何やら主従のようだな。まあ指示者と実行者がいた、ということか。役職名などどうでもよいことだ。
「旦那様、この子の瞳は今は青くはないのですよ。なんとも神秘的な銀色に輝いているのです。明日ご覧下さいまし」
母から愛おし気に頭を撫でられた。ここは笑顔を返そうか。私はニコりと母に笑いかけた。
「大層聞き分けのよい子です。この子には無事育ってほしいと思っています」
その言葉で察した。この夫婦には生きることの出来なかった子たちがいた……。自分に死の経験がないから思いつかなかった。そうさ、赤子のうちに死ぬものは少なくない。医療の発達していない時代ならその割合はとても高いと言えよう。特別過保護なわけではなかったのだ。死なないよう育てる必要があ――
そのまま眠ってしまったらしい。次に目を開けた時、父の姿は既になかった。母は身支度を整えて寝台に腰かけている。
「おはようネフェルト。よく眠れたかしら。昨日は酔っぱらってしまったものね」
はい?今なんと?
誘拐騒動の顛末はわからなかったものの、その後ネフェルトに災難が降りかかることもなく、順調に成長した。時の流れは速い。今世は赤子から始まったからな。




