21-1 命の価値 (前編)
モロー砦まで山一つというところまで、休みなく走った。
レントの乗る大鹿にリーアが一緒に乗り、僕は別の兵士の後ろに、そしてミラはもう一人の兵士が支えている。
ミラはあの後、意識を回復したけれど、具合は悪そうだ。それでもレントたちが用意した保存食を口にして、水も飲んでいる。
むしろリーアの方が疲労している。レントにほとんど寄りかかっていた。
集落を脱出して、二日目の夜になった。大鹿に乗っていない、他の三人の兵士たちが集まってきて、やっとレントが事前に集合場所を決めていたことに気づけた。
集まった情報を元に、レントたちがモロー砦へ逃げ込む方法を議論し始める。
モロー砦には今、禁軍の増援が入っていて、これは正真正銘の禁軍、リーアに忠誠を誓っている部隊だという。
つまりあと一つ、山を越えて、モロー砦へ飛び込めば安全だ。
僕は彼らの議論が終わってから、リーアのそばに戻った。彼女はどこか苦しそうな表情で、しかしもう眠っていた。
「あどけないな」
すぐ横に、レントが立っていた。僕は小さく頷く。
「彼女が皇帝陛下とは、信じられんよ。小娘にしか見えん」
「冗談ですよね? 主任」
「冗談さ」
彼がすぐ横に腰を下ろし、しかし顔を上に向けている。僕も釣られて上を見た。
木々の隙間に、星が見える。
「私を切った男は、久しぶりだぞ」
どうやらレントは、彼の制止を振り切った時の話をしているらしい。
「凄まじい技だった」
「大袈裟ですよ。たまたま一回、切れただけです」
「誇張していないよ。あの時、私は切られたと思った。微かに皮膚が切れた程度だったが、あれは手加減か?」
どう説明したらいいのか、僕は迷った。
何を言っても謙遜しているか、誤魔化しているか、思われそうだった。
「あの時は、本気でした。恐ろしいですが、主任を切るつもりでした」
「そうか……。それはそれで、光栄なのかもしれないな」
不思議なことを言って、レントが腰を上げた。
「一時間後に、動く。夜のうちに、距離を稼ぎたい」
無言で頷いた僕にレントも頷き返し、離れていった。
しばらく僕はリーアの寝顔を見ていた。一時間はあっという間で、彼女を起こすのに、躊躇うほどだ。
彼女は目覚めと同時に真剣な顔になって、レントの元へ行き、今後の展開を訪ねている。リーアはレントと彼の部下に、顔を見ることや話をすること、そういうことを許している。
話し合いはすぐに終わった。兵士たちが声を出さないための道具を噛み締め、大鹿にも似たものを咥えさせた。大鹿の足には草鞋がある。
そうして密やかに、森林地帯を進み、山の中の間道を行く。
レントが知っていた密かな間道で、ここはモロー砦での走り込みの範囲ではなかったので、土地勘がない。不安を感じながら、進んだ。
傾斜ができ、山を登っているのがわかった。
夜明けまで緩やかな登り坂を進み、少し開けたところで隊列は止まった。
すでに空は白み始めている。
「陛下、あの灯りがモロー砦です」
レントが指さした方、谷を挟んだ緩やかな山の上に、篝火が焚かれている。
ホッとする光景のはずが、僕はまた不安に襲われた。
禁軍が敵になったのに、モロー砦に敵がいないと信じるのは難しい。レントたちが離れてから、奪取された可能性も捨てきれない。
その点はレントも気になったようで、兵士一人と大鹿一頭を先に砦へ向かわせた。
偵察の報告を受けて、安全なら、砦へ近づくのだ。
朝食として、保存食ではないものが出た。僕や兵士たちはわずかに口にして、リーアとミラに多くが振り分けられた。
リーアはミラが気になるようだけど、意識のあるミラは、しきりに自分を置いていくように言っている。これにはレントも口を挟み、見捨てないと明言した。
そのうちに周囲は明るくなる。
ここに来るまで、だいぶ幸運に助けられたと思う。
だからここで起こった不運は、その揺り戻しとも言えた。
僕たちがいるその場所に、禁軍の兵士が二人、突然に現れたのだ。
向こうも予想外だったらしい。ぶらりと現れて、動きを止めた。
声を上げさせる間もなく、切って捨てられれば、また違っただろう。
実際は、一人は首を切られ、もう一人は腕を切り飛ばされた。
片腕を失った方が、まさに絶叫した。森全体に響くような、悲鳴だ。
「行くぞ、突き破るのみだ」
簡潔なレントの言葉に、兵士も、僕も、反応した。
ミラを大鹿の一頭に載せる。リーアもだ。今は大鹿は二頭しかいない。
「お前が乗れ、リン」
てっきり、リーアを乗せる大鹿にはレントが一緒に乗ると思っていた。
「主任が乗るべきです」
「私なら禁軍の兵士に、奴らの仲間、反乱軍の一員と思わせることができる。お前には無理だろう? お前の年齢の兵士はいない」
反論している暇はなかった。周囲から姿は見えないものの、大きな気配が迫ってくるのがわかった。
「行け、リン。砦で会おう」
僕は大鹿に跨った。
大鹿は軽快に駆け出し、すぐにレントと二人の兵士は見えなくなった。
もう一頭の大鹿とペースを合わせて、斜面を下りていく。谷にある小川を越えると、僕にも見慣れた景色が現れた。
モロー砦まで続く道の幾つかが思い浮かぶ。最短距離を行くべきか。
「敵襲!」
兵士の一人が叫ぶ。僕は周囲に視線を走らせ、剣の抜き打ちで飛来した矢を払った。
一本だけではない。払えなかった二本の矢が大鹿に突き刺さる。暴れた鹿から、僕もリーアも振り落とされた。ミラを連れている兵士の大鹿は、少し離れたところでやっぱり倒れた。二人がどうなったか、確認できない。
リーアは足を挫いたようだ。彼女を抱え上げ、木の陰に隠れた。幹に二本、三本と矢が刺さった。矢が飛んでくる方を見ると、禁軍の鎧の兵士が十人以上、並んでいる。
「ここまでみたいね」
顔をしかめているリーアは、投げ出すような口調で言って、僕の手を掴んだ。
その手はやっぱり、震えている。
「諦めるには早いと思う。この山のことは、僕の方が知っているから」
「私は動けません」
「僕は動ける」
剣を鞘に戻し、僕は改めてリーアを抱え上げた。
「無事を祈ってください」
ぎゅっとリーアが僕にしがみついた。
何をするか、わかったんだろう。
僕は木の影から飛び出し、走った。矢が周囲に降り注ぐ。ほとんどは木か地面に刺さる。
僕にも何本か矢が当たったけど、勘定したりする余裕はない。
森の中を必死で走った。道筋は行き当たりばったりで、しかし自分のいる地点は把握できた。
どれくらいの時間、走ったのだろう。
木の根に足を取られた。これは訓練の時にも知っていた根だ。いつも転ばないようにしていたのに、こんな時に限って。
リーアを守るように転がって、僕はもう自分が動けないのに気付いた。
咳き込むと、胸が痛んだ。背中も痛む。矢が刺さっているらしい。
何かが喉元をせり上がり、咳と同時に少しだけ血が散った。
「リン、あなた……」
こちらににじり寄ってきたリーアを見ると、彼女には矢は当たってない。
良かった。
「この道を上に行けば、砦です」
「あなたを置いては、いけない」
「立場を考えてください」
リーアの手が僕の手を掴む。震えは消えていない。
「友達を置いていけないわ」
「皇帝陛下なのですよ、あなたは」
「もう皇帝じゃないわ!」
僕は彼女の肩に手を伸ばそうとしたけど、その腕さえも上がらない。激痛に息さえ乱れた。
「あなたは皇帝です。ですが、僕があなたを守ったのは、皇帝だからではない」
「あなたも逃げるのよ。引きずってても、行くから」
「話をしている暇はない。行け。行くんだ」
リーアが僕を見ている。
「行って、生き延びてくれ」
彼女の表情から、生気が消えた。
(続く)




