18-1 動き出す時 (前編)
その夕方も、僕はレントと棒を向け合っていた。
やっぱり上達しているとは思えない。毎日、棒を突きつけあって、動かないのだ。
身体が鈍らないのは、暖かくなっていよいよ本格的に農作業が始まったからで、昼間は毎日、鍬を使っている。
レントがその稽古の最中に、ふっと視線を外した。焦点が僕の背後に向いている。
好機、と思ったのもつかの間、レントに油断は少しもないと気づいた。
この人にはそれだけの技量がある。
僕がまたそんなことを考えた時、レントは棒を下ろし、こちらへ踏み出した。
明らかに打ち合う姿勢ではない。
それなのに、動けない。
僕は早々に諦めて、棒を下ろして背後を振り返った。
防壁の向こうに何かの気配があり、それが崩れた箇所の石の山を踏み越えてきた。
服装は、農民に見える。見えるけど、背丈が低い。子どもみたいだ。
その誰かは砦に入ってきて、ゆっくりと近づいてくる。
敵意や害意は、感じられない。
月の明かりの中で、その顔が確認できた。
「キクスじゃないか!」
僕は思わず駆け寄っていた。
農民に変装しているらしいキクスは軽く手を上げて、周囲を眺める素振りをした。
「噂には聞いとったが、胸糞悪い砦やな」
言葉とは正反対のことを思っているのは、僕にはよくわかる。
「戦いもないしね。これはこれで、いい生活さ」
「そうとも言っとれんのや。あとで話そか。お前を訪ねてきたわけやない」
そっけなく応じて、キクスはレントの前に進み出た。
「レント・ヴィラン大尉ですね?」
「そういう君は?」
「どうか、人払いを」
初めて聞く真面目そのもの、真剣そのものの声で言うキクスに、レントも何かを理解したようで、こちらに棒を放り投げてきた。僕は余裕を持ってそれをつかんだ。
「片付けておいてくれ」
そう言った時にはもうレントは背を向けて、キクスと一緒に砦に入って行ってしまった。
◆
レントは自分の部屋にキクスを招きいれて、椅子を勧めた。
「いえ、長居はできないのです」
「なら用件を聞こう」
すっとキクスが書状のようなものを取り出し、差し出してくる。
まだレントには事態が飲み込めなかった。
しかし、目の前にいる少年がただの少年ではないのは雰囲気でわかる。
受け取った書状を開封して、レントは一瞬だけ血が引き、次の一瞬には怒りが沸き起こり、さらに次の一瞬で平常心を取り戻した。
確認のために書状を眺め、最後の署名を見た。
「帝国軍情報局か。噂ではなかったのだね?」
鋭い動きで、キクスが敬礼した。
「キクス・グロウ候補生です」
「敬礼はいい。この砦では無用だ。もっとも、今はそれどころではない」
手紙をもう一回、確認したい衝動を抑えつつ、レントは質問した。
「帝都の状態は? この通達が作成された後の展開を知りたい」
「指揮系統が混乱しています。皇帝陛下が誅殺された、という噂もあるほどです」
「実際には?」
「ご無事です」
ふむ。レントは自分が落ち着いているのを、まるで他人事のように感じつつ、軽く顎を引いた。キクスは敬礼を解いて、頭を下げた。
「大尉には、我らにご加勢を願いたい」
思わず、レントは笑っていた。
「この砦には私を含めれば五人しかいない。それに追加して、候補生が一人いるが」
「戦力ではありません。ここを押さえられれば、陛下は挟撃されてしまいます」
「物は言いようだな。もし反乱軍が押し寄せれば、この砦は放棄せざるをえない。それなのに、私が陛下の側につく理由は?」
その時、キクスが浮かべた表情にレントは胸を打たれた。
清々しい、少しの疑いもない、確信に満ちた顔。
「皇帝陛下こそ、この国を統べるのにふさわしい。私はそう思います」
即座には言い返せなかった。
反射的に首筋を撫でつつ、レントは考えた。
「君は」考えながら喋った。「これからも各地の砦や駐屯地を巡るのだね?」
「そうです。それが情報局の方針ですから」
ついに来たのか、と思考は巡っていた。
状態は、レントの忠誠心を確認するような展開だ。
反乱が起こり、今、まさに至上の存在である皇帝陛下が、危機に陥っている。
これを助けるために、自分は帝国軍に入ったのだ。
「良いだろう」
立ち上がったレントはキクスの肩を叩いた。
「微力ながら、協力する」
◆
すでに日が暮れていたけれど、レントが兵士五人と僕を食堂へ呼んだ。
食堂へ向かう途中で、キクスと鉢合わせた。
「もう行くの? 何の用事だったのか、教えて欲しいけど……」
「大尉が話をするやろ。俺は忙しい。ほな、またな」
立ち止まることもなく、すれ違った。見送る僕に、キクスが振り返る。
「あまり突っ走るなよ」
そんな言葉を残して、キクスは姿を消した。
仕方なく、僕はキクスのことは忘れることにして、食堂に入った。
すでに全員が揃っていて、恐縮した。全員が起立している。
「よし。今から話すことは、あまりに大きいことだから、みんな、心して聞いてくれ」
何の話なのか、よくわからない。それでも僕は耳に意識を集中した。
(続く)




