10-1 剣術 (前編)
年末が近づいてきていた。空気からは秋が消えつつある。
帝宮の中の、中庭が見える部屋で、僕とマリアンナ、そしてミラ、全てを統べる皇帝陛下が時間を過ごしていた。
夕方にいつも来るので、中庭は闇に沈んでいる。小さな明かりが所々にあるけれど、とても弱い光だ。
「ミラ、例の腕時計を覚えている?」
話が途切れた時、リーアがミラに言うと、ミラが小さく頷いた。
「みんなに見せたいわ。持ってきてくれる? 私の部屋にあるの」
「部屋のどこでしょうか」
「机の横の戸棚、その一番上の引き出しよ」
もう一度、ミラが頷いて、部屋を出て行った。代わりをするためだろう、別の侍女が部屋に入った。
ミラの立場はリーアにものすごく近いけど、ミラが侍女を総べているようではない。
どうも秘書のような立場のようだけど、同時に護衛でもあるのは、想像が容易い。
何度もミラの動作を観察する機会があったので、徐々にわかってきたのだ。彼女は何かの武術を修めているようだ。
「実はね」リーアが下を小さく出す。「ミラには、ちょっと目を離してもらったの」
妙な展開に、僕とマリアンナは顔を見合わせた。
「腕時計はここにあるのよ」
そう言って、リーアがスカートのポケットから腕時計を取り出した。しっかり見なくても、高価なものであるのはすぐわかる。
「ミラを遠ざけて、どうするの?」
「あなたたちの乱取りが見たいわ。できる?」
もう一度、僕とマリアンナは視線を交わした。マリアンナは迷っているようだ。僕も迷っていた。
そう言っている間にも、リーアは侍女に訓練用の棒を持ってくるように指示している。侍女がためらうと「行きなさい!」と珍しく、強い口調で言って、その一言を受けた侍女は青い顔で部屋を出て行った。
一喝したとは思えないほど穏やかな表情で、リーアがこちらを見ている。
「あなたたちって、どちらが強いの?」
僕もマリアンナも答えられなかった。
どうもリーアは何か、勘違いをしている。
「乱取りは、勝負ではないのよ、リーア」
そうマリアンナに言われても、リーアには理解できないようだ。
「でも、勝敗はつくでしょう? これからやる乱取りは、一回でも棒が当たったら、そこで終わりよ。つまり、真剣と一緒ね」
勝手な理屈を並べ始めたリーアに、もうマリアンナは何も言わず、首を振った。
侍女が戻ってきて、棒を二本、こちらに差し出す。マリアンナが進んで一本を手に取ったので、 僕も掴まないわけにはいかない。
早くミラが帰ってきてほしい。ミラなら、こんな馬鹿げたことは即座に止めるだろう。
でもきっと、彼女はありもしない腕時計を探している。
早く、真相に気付いてほしい。
「中庭でやりましょう」
リーアに先導されるように、僕とマリアンナは中庭に出た。
「まぁ、たまには良いわよね」
瞬間、ガラリとマリアンナの気配が変わった。
「本気を出す場面も、そうないから」
冷気さえ感じる、口調だった。そしてマリアンナは棒を構えている。
気迫が、押し寄せた。
自然、僕も棒を構える。普通の剣の長さだ。やや軽い。
「合図はなしよ。始めて」
リーアの声も、遠く感じた。
視界にはマリアンナしかいない。叩きつけられている気迫は、周囲を圧倒して余りある。
その中で、まるで身を守るように、僕は気迫をぶつけていく。
マリアンナまで届いているかは、わからない。
強い気と強い気のぶつかり合いは、時に剣や棒の打撃より、力を持つ。
僕は動けなかった。それくらい、マリアンナの圧力は強い。
この圧力に負けて踏み込むと、逆に打たれるだろう。
そしてその打撃は、本気の一撃だ。
彼女が本気で、手加減なしで打ってくるのは、発散される気で明らかだ。
殺気と呼んでもいいものが、向かってきているのだから。
僕がそれに、相手を傷つけないようにだとか思って、対応できるわけがない。
必然として、僕も本気で打つ気になった。
ただ、二人共が動かない。
汗が滲む。こめかみを伝い、次に鼻筋を伝う。
瞬きさえ、できない。
全身が強張り、同時に弛緩する。
絶対に動けないのに、いつでも動ける状態。
マリアンナは、打ってこない。
両者が拮抗し、相手が出るのを待っている。
動かなければ、隙はできない。
こうなれば、この対峙におけるもう一つの要素を押していくことになる。
気迫をぶつけて、気で圧倒する。
ただ、それも難しい。気迫でさえ、拮抗している。
身近にこんな使い手がいたことが、驚きだった。先生には及ばないが、いつかの上級生とは比べ物にならない。
耐えるしかない。きっと、マリアンナも耐えている。
時間の流れが消えている。ただ、彼女の姿だけがある。
動くのか? 動けるのか?
いや、駄目だ。
負けると思いたくなる気持ちを、忘れようとする。
思考の波が徐々に静まっていくのがわかる。
無心が、やってくる。
誰かが何かを言った。
誰だ?
リーア?
ミラ?
マリアンナが動いたのが、知覚や理解が伴わないまま、受け入れられた。
僕の体も動いている。
僕の方が、早い。
早いけれど、打てなかった。
一瞬の中のさらに一瞬で、僕の気迫がマリアンナの気迫に飲み込まれた。
体がすれ違っていくのが、よくわかった。
右の手首に灼熱が走り、しかしすぐに振り返って、マリアンナと対峙した。
僕の手には、棒がなかった。マリアンナが上段に棒を構え、もう一撃、打てる姿勢だ。
しかし、彼女の目は、驚きに見開かれている。
「何をしているのです!」
怒声の方を見ると、ミラが戻ってきていた。そのすぐ横で、やっぱり驚きに目を見張ったリーアがいる。
手首の熱が、痛みに切り替わって、思わず僕は呻いて、押さえていた。
(続く)




