第二章「先生と出会ったからなんだよ」④
精神病院の前に着くと、宗平はいつの間にか家族のことを思い出している。精神科医をしていた妻は、仕事から帰ってくるといつも楽しそうにやりがいを語っていた。その笑顔を不意に思い出す。当時の自分は天文学者として充実した毎日を送っていた。大学教授としての地位も得ていた。とにかく当時は仕事が楽しかった。妻は精神科の話をするだけではなく、自分の天文学者としての話を明るい笑顔で聞いてくれた。彼にとって妻との時間はかけがえのないものだった。妻とおしゃべりする時間を考えると、忍耐の必要な仕事も乗り越えることができた。妻もよく言ってくれた。
「あなたがいるからどんなにつらいことも乗り越えられるんだよ」
宗平は娘のことも思い出す。娘とはよく近所の公園に遊びに行った。それは幼い頃だけではなく、小学生になっても亡くなるまで続いた。そんな娘とのお出かけが彼にとっては何よりも心待ちの時間だった。娘の楽しそうな笑顔を思い出す。彼女はいつも元気に公園を走り回っていた。公園にいる他のどんな子どもたちとも仲良くなった。その人懐っこさは妻から受け継いだものだろうと思う。妻もたくさんの友達がいて、大学の頃からよく人の輪の中心にいるような人だったから。娘はよく笑っている子だった。表情が豊かでよくころころと変わっていた。そんな彼女の表情を見ているのは幸せだった。
「お父さんはなんで私のことを楽しそうに見ているの?」
いつしか娘からそう聞かれたことがある。彼はそのときつい笑顔がこぼれていた。
「それは遥楓のことが大好きだからだよ」
彼がそう言うと、娘は思いっきり抱きついてくれた。
「私もお父さんのことが大好きだよ!」
宗平は家族のことを思い出して不意に涙があふれそうになる。家族を失った理不尽さが押し寄せる。彼は眉間にしわを寄せて目を閉じる。やがてハルカの声が聞こえる。
「家族のことを思い出してつい寂しくなっちゃうな」
ハルカはそう言ってかつてのことを話し出す。宗平は黙ってそれを聞いている。
「私ね、今はひとりぼっちだけど、昔は家族がいたんだ。お父さんはいつも荒れていて、お母さんはいつも病んでいた。それでお母さんは精神科のクリニックに通っていたんだ。実家のおじいちゃんやおばあちゃんを頼ってよく山梨に帰省していた。今はもうその家はどこにもないけれど。あるときお母さんは心を壊して入院することになった。それがこの病院なんだ。実家にいたお母さんは発狂して自分の部屋をぐちゃぐちゃにしたあと、何もできなくなった。ごはんを食べることも、トイレで用を足すことも、着替えやお風呂も、本当に何もできなくなったの。それで心配したおじいちゃんとおばあちゃんがこの病院に入院させた。その頃のお母さんの姿を、今でもよく覚えている。子供の私は人知れず心が傷ついていた。でも、それを誰にも話すことができなかった。私のことで心配をかけたくなかったからね。それが当時の私にとってはかなりきつかったんだ。天真爛漫であるべき子供時代に私はいつも気を遣っていた。たぶんそれは今の私の人格形成にも影響していると思うの。私は周囲に気を遣ってばかりで何も言えない人になった。先生の前ではなぜかそんなことはないんだけどね。どうしてだろう?」
そこでハルカは伸びをするとひと息をつく。宗平は何も言わずにつづきを待っている。
「お母さんは入院したおかげで一旦元気になったけれど、そのあとすぐにおじいちゃんとおばあちゃんが交通事故で死んでしまったんだ。両親が心の拠り所になっていたお母さんは、私には何も言わずに自分の命を絶ってしまった。首吊りしたお母さんを目にした衝撃は絶対に忘れないと思う。私はお母さんのことが大好きだった。心の中でいつもお母さんが元気になることを願っていた。お母さんといつかのように笑いたいと思っていたんだ。でも、お母さんは何も言わずに死んでしまった。今でもそれがつらいの。お母さんのことが大好きだからこそ、私は問いかけてしまうんだ。どうして私のことを置いて行ったの? でも、その答えを教えてくれる人はいない。ねえ、先生はどうしてだと思う?」
宗平はしばらく考えてから、慎重に言葉を選んで答える。
「それはきっと、お母さんが君のことを愛していたからじゃないか。だからこそお母さんは君のことを巻き込みたくなかった。無理心中ではなくたったひとりの自殺を選んだのはそういう理由があったんだと思う。お母さんが君に何も言わなかったのは、自分の気持ちを正確に伝える言葉を知らなかったから。余計なことを言うくらいならと、何も言えずに逝ってしまったのではないだろうか?」
「なるほど、先生は優しいね。いつも私がほしい言葉をくれる。ねえ、知ってる? 実は子供の頃に、私は先生と会っているんだよ」
そこで宗平は動揺する。でも、その気持ちを表には出さない。




