第二章「先生と出会ったからなんだよ」③
二人は旅館に戻ると、天体観測の準備をする。まずは浴衣から普段着に戻る。ハルカは黒いワンピース、宗平は白いワイシャツと黒いネクタイという姿になる。そして望遠鏡が入ったショルダーバッグを持つと、二人は部屋を出てレンタカーに乗り込む。
「さて、これからどこに行けばいいのだろう?」宗平が尋ねる。
「この自然公園に行ってほしいんだ。無料の駐車場があるはずだよ」
ハルカは手元のスマートフォンを差し示す。甲府盆地の西端に位置する大きな自然公園であり、駐車場の近くには精神科の病院がある。ハルカは声のトーンを落とす。
「ここは私が子供の頃によく行った公園なんだ。お母さんの実家が山梨にあって、帰省のときによく連れて行ってもらったの。そこから見える星空が、私にとって世界でいちばん好きな光景なんだ。お母さんも、おじいちゃんやおばあちゃんも、みんな死んでしまったけどね。公園の近くに精神科の病院があるでしょう。そこにお母さんが入院していたことがあるんだ。そのときもお見舞いのついでに、おじいちゃんに連れて行ってもらったな」
「そうなんだ」宗平はそれだけ言って、あとは車の運転に集中する。
宗平にとっても精神科は馴染みがあった。自分自身が受診したことはないけれど、彼の亡くなった妻が精神科医をしていた。妻はクリニックを開業するのが夢だった。その準備のために努力していた中で、彼女は亡くなってしまった。精神科という言葉を聞いて、彼はどうしても妻のことを思い出す。それは彼の心に痛みをもたらす。妻を亡くした悲しみが押し寄せる。眉間にはしわが寄る。彼はあふれそうな感情を必死にこらえる。
気づくとハルカは眠っている。宗平はその様子を横目にしながら黙々と運転する。自然公園の駐車場に車を止めると、ハルカに「着いたよ」と声をかける。彼女は目を覚ますと伸びをする。二人は車を出ると、視界を遮るものがない開けた場所を探して、持ってきた望遠鏡を設置する。見上げるとそこには、都会では見えない満天の星空が広がっている。
ハルカは目を見開いて息をのむ。
「すごい。とてもきれいだね。子供の頃に何度も見たはずだけど、こんなにきれいだとは思わなかったな。なんだか自分の体が夜空に溶けていくみたい」
「確かにきれいだな。こうして純粋な気持ちで夜空を見るのは久しぶりだよ」
天文学者をしている頃は、夜空は研究対象であり何かを考えながら見上げるのがいつものことだった。仕事を辞めてからは夜空を見上げることがなくなった。
「ここだと暗い星もたくさん見えるね。あの明るい三つの星が夏の大三角形でしょう?」
ハルカは夜空に指をさしている。宗平はポケットに手を入れている。
「三つの星の中でひときわ明るく輝いている青白い星があるだろう。あれをこと座のベガという。七夕の織女星であり、日本では織姫として親しまれている」
「あれが織姫なんだ! とてもきれいだね。じゃあ、どこかに彦星もあるってこと?」
「もちろん。ベガの左下にある、夏の大三角形の明るい星をわし座のアルタイルという。それが七夕の牽牛星であり、いわゆる彦星にあたるものだ」
ハルカは目を輝かせながら星空を眺めている。
「両方ともきれいな星だね。もしかして織姫と彦星のあいだの明るい帯が天の川なの?」
「そうだ。僕らがいる太陽系も天の川銀河の一部であり、夜空で見ている天の川は銀河の中心に向かって横から眺めたものなんだ。天の川を挟んで織姫のベガと彦星のアルタイルが向かい合っていることになる。夏の大三角形のもう一つの星をはくちょう座のデネブという。ベガとアルタイルの上方にある明るい星がデネブであり、ちょうど天の川の真ん中で白く輝いているんだ。白鳥の尾にあたる星で、そこから右下に伸びている十字架の形を北十字星という。ちなみにベガは夏の夜の女王と例えられていて、アルタイルは飛ぶ鷲という意味があるんだ。夏の大三角形から北極星を探せるんだけど、君は分かるかな?」
ハルカは目を丸くして北極星を探そうとするが、見つからなくて首をひねる。
「分からないな。どれのことだろう?」
「実は、夏の大三角形の近くに北極星を見つけることができる。はくちょう座のデネブとこと座のベガを結んだ辺を基準にして、夏の大三角形を折り返すとわし座のアルタイルが位置するあたりに北極星を見つけることができるんだ。北極星はいつも真北の空に輝いている。もちろんよく言われるように、北斗七星の先を伸ばして見つけることもできる」
「分かった! あの星のことだね。教えてもらった星たちを望遠鏡でも見てみようっと」
ハルカは望遠鏡を除きながら口を大きく開いている。
「あれがこと座のベガで、あれがわし座のアルタイルだね。そしてあれがはくちょう座のデネブか。きれいだな。そしてあの十字架の形がはくちょう座の北十字星で、アルタイルの反対側にあるのが北極星だね。ということはあれが北斗七星ということか。すごいな、こんな私でも星座がよく分かるよ。とても楽しい!」
ハルカは目を輝かせながら宗平を見る。その笑顔に彼の心は揺すぶられる。まるで娘と天体観測をしているような楽しい気持ちになる。幼い娘とかつて天体観測に出かけたことを思い出す。同時に本当の娘はもういないことの痛みがよみがえる。彼は心を鎮めるために目を閉じる。娘の残像は遠くに消えていき、かわりにハルカの楽しそうな声が聞こえてくる。目を開けると彼女は夜空を見上げている。
「楽しいな。本当に星座ってきれいだね。ねえ、先生。他の星座についても教えてよ」
「あそこに赤く輝いている明るい星があるだろう。あれをさそり座のアンタレスという。さそりの心臓とも呼ばれていて、アンタレスを中心に明るい星がS字状のカーブになっているのが分かるだろうか。それがさそり座の全体だ。その近くにはやや見にくいけれど、南斗六星を含んだいて座がある。見えるだろうか?」
ハルカは必死に目を凝らしている。夜空に指をさしながら言う。
「さそり座のアンタレスはすぐに分かったけど、いて座はちょっと分かりにくい。あれのことかなという気はするけれど。何だかむずかしいね」
「たくさん星があるからね、かえって分かりにくいかもしれない。ちなみにさそり座の頭のところにはてんびん座があって、その先の明るい星をおとめ座のスピカという。そしていて座の上にはたて座がある。夏の大三角形の右側に広がっているのがヘルクレス座で、その下にへびつかい座とへび座がある。夏の大三角形と北極星とのあいだにはりゅう座があって、はくちょう座のすぐ下にや座があり、その近くにこぎつね座といるか座もある。あとはいて座の下にみなみのかんむり座があるくらいかな」
一気にまくし立てるような宗平の説明を、ハルカは目を丸くして聞いている。
「すごいね。先生はよく知っているね。まったくついていけなかったよ」
「それは申し訳ない。楽しくてつい興奮してしまった。星座は趣味でよく見ていたから、自然と覚えてしまったんだ。君もきっと天体観測を繰り返しているうちに覚えるよ」
「そうなんだ。私もそうなれるといいな。これからも一緒に天体観測をしようね」
「そうだな。星座のことはたくさん教えてあげるよ」
「ありがとう、先生。楽しみにしているね」
夜空を見上げていたハルカは不意に声のトーンを落とす。
「ねえ、もうひとつ見ておきたいものがあるんだけどいいかな?」
「構わないけれど、何を見ておきたいんだ?」
宗平はハルカの横顔を見る。ハルカは夜空を見上げたまま言う。
「近くにあるお母さんが入院していた精神病院を見ておきたいの。せっかくここまで来たからね。お母さんとの思い出を辿っておきたい」ハルカは寂しそうな笑顔を見せる。
「分かった」宗平はそれだけを言うと、望遠鏡を片付けて歩き出す。遠くには精神病院の明かりがぽつんと見えている。二人は何も言わずに黙って歩いていく。




