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第二章「先生と出会ったからなんだよ」②

「ねえ、先生は宇宙の中でとくに何が好きなの?」

「僕の専門は宇宙論といわれるものだ。具体的には広大な宇宙の始まりを知るために微小な素粒子を研究している。宇宙と素粒子のあいだを行き来するようなものだ。宇宙を探索するには素粒子が欠かせないんだ。素粒子というのは原子を構成する分割できない最小の粒子のことだ」宗平が答える。

「なんだか不思議だね。小さな素粒子を調べることで宇宙のことが分かるなんて」

「素粒子というのは大きなエネルギーがなければバラバラで存在できない。素粒子物理学は高エネルギーの状態で何が起こるのかを調べる学問なんだ。だから素粒子を調べるには大きな衝突エネルギーを生み出す巨大加速器が必要になる。一方で、初期の宇宙は非常に高温、高密度の状態だったと言われている。すなわち初期の宇宙が高エネルギーの状態にあったことを意味しているんだ。高エネルギーの状態を調べるのが素粒子物理学であり、だから初期の宇宙は素粒子の知識を用いないと調べることができないんだ」

「なるほど。だから先生は宇宙の始まりを知るために素粒子を研究しているんだね」

「素粒子というのは面白い。僕らが住んでいるような普通の状態では起きないようなことが起こる。たとえば不確定性原理というものがある。位置を正確に測ろうとすると運動量が不確かになり、逆に運動量を正確に測ろうとすると位置が不確かになるというものだ。素粒子というのは点ではなく広がった雲のように不確かであり、近づきすぎるとかえってその姿をうまく捉えることができないんだ。まるで人の心と同じように」

 宗平は雲を作るように手を動かす。

「なるほど。なんだか不思議だね。常識が通用しないところが面白いのかもしれない」

「そうなんだ。まさしく常識が通用しないところが素粒子の魅力なんだ」

 昇仙峡の展望台をあとにすると、二人は旅館に戻って温泉に入ることにする。客室には露天風呂が備え付けられている。それを見たハルカは嬉しそうに飛び跳ねている。

「部屋に露天風呂があるなんてすごい! ありがとう、こんないい部屋にしてくれて」

「個人的に公衆浴場は苦手なんだ。知らない人がいると落ち着いて入れない。だから気にしなくていいよ。僕はあとからゆっくり入るから、君が先に入ってくるといい」

「やった! ありがとう。ひとりだけで露天風呂に入るの楽しみだな」

 そう言ってハルカは露天風呂に入っていく。

 宗平は座布団の上にあぐらをかくと、温かいお茶をゆっくりと口にする。そしてひと息をつく。思えば遠くまで来たものだ。朝はひとりきりで東京にいたのに、今は娘のような少女とふたりで山梨にいる。しかも旅館で一緒の部屋に泊まっているなんて。

 人生は何が起こるか分からないものだ。つくづくとそう思う。果たしてこれからこの旅はどのように転がっていくのだろう。先の予想がまったく立たない。けれど、だからこそワクワクしている自分に気がつく。今までは色彩のない毎日を繰り返していた。先の展開が読めないなんて久しぶりのことだ。まるで自分の人生が色彩を取り戻したような感覚になる。不思議なものだ。実際のところは何も変わっていないはずなのに。

 しばらくしてハルカが戻ってくる。彼女は赤色の浴衣を着ている。

「先生、見て! この浴衣とってもかわいいよ」

 ハルカは袖を持って楽しそうにくるくると回っている。そんな彼女の笑顔が自分の娘と重なって見える。もし娘が生きていたら、こんなふうに笑顔を見せてくれるのだろうか。

「そうだね。とてもかわいいね」

 宗平は娘に話しかけるような優しい口調になっている。ハルカは頬を赤くする。

「ありがとう。先生にそう言ってもらえると嬉しいな」

 それから宗平も露天風呂に入る。湯船に全身を浸すと、筋肉の緊張がほどけていくのが分かる。思わず「ふぅ」とため息をつく。こうしてお風呂に入るのは久しぶりだ。最近はもっぱらシャワーで済ませていた。温泉の気持ちよさに思わず目を閉じる。全身の弛緩と一緒に憂鬱もほどけていくような気がする。ここに来てよかった。気がつくとそう思っている。自分がまたこんな気持ちになることがあるなんて。そのことに驚いてしまう。

 自分はこのまま絶望の中で人生を終えると思っていた。二度と希望を抱くことはないと思っていた。それなのに自分はこうしてハルカとの二人旅を楽しんでいる。本当にこれでいいのだろうか。自分にその資格はあるのだろうか。脳裏に妻と娘の笑顔が浮かぶ。彼女たちはこんな自分を許してくれるのだろうか。すまない、今だけは見逃してくれ。

 そこで宗平は温泉に顔を沈めると、両手で顔を覆う。妻と娘のいない世界で希望を抱くことの罪悪感がある。自分は妻と娘を助けることができなかった。そんな自分が妻と娘を差し置いて幸せになることは許されない。

 でも、ハルカとこうして二人旅に出たことで久しぶりに心が高揚しているのを感じる。そのワクワクに今だけは浸っていたいという気持ちがある。妻と娘を裏切っているのかもしれない。それでもふたりの優しさに今だけは甘えたいと思う。

 温泉から上がると夕暮れになっている。宗平とハルカは浴衣で外に出る。

「君は何が食べたい?」宗平が尋ねる。

「私は何でもいいかな。先生の食べたいものがいい」ハルカが答える。

「そうだな……今の気分はお寿司かな」

「いいね! 普段はあんまり食べられないけど、お寿司は大好きだよ」

 宗平が選んだ店はいかにも高級そうだった。もちろん回転する皿なんてない。そんな店に何事もなく入っていく先生を見て、ハルカは驚いてしまう。いったいどれくらいの値段がするんだろう。次第に緊張していくのが自分でも分かる。そこで宗平が言う。

「好きなものを食べていい。普段はお金を使うことがないから、持ち合わせはあるんだ。遠慮する必要はない。君は何が食べたい?」

 そう言われても、人生で初めての高級なお寿司屋さんだ。遠慮しない訳にはいかない。一万円を超える料理が並んでいるお品書きを見て、思わず手が震えてしまう。

「じゃあ、とりあえず玉子とサーモンにしようかな」ハルカは遠慮がちに言う。

「それだけでいいのか? 僕はこの御膳にしようと思うが」

 宗平が選んだのは寿司と天ぷらとうなぎがついた御膳で、値段は二万円になる。

「だ、大丈夫なの? そんなに高いものを頼んで」ハルカは小声になる。

「大丈夫だよ。お金は余っているんだ。気にしなくていい」宗平は平然としている。

 高級な料理を頼んでも、緊張のせいで味がしないと思う。だから味が分かりやすそうなものを選ぶことにする。ハルカはしばらく悩んだあとで言う。

「じゃあ、あとは焼き鳥を一本だけもらおうかな」

「本当にそれだけでいいのか? 僕に遠慮していないか?」宗平は怪訝な表情になる。

「し、していないよ。お腹が空いていたら、追加で頼むことにするよ」

 ハルカは焦りをごまかすように言う。正直なところ、緊張してあまり空腹を感じない。でも、せっかく連れてきてくれた先生に悪いので、そのことは黙っている。宗平は不思議そうに首を傾げている。お昼のほうとうはあんなに食べていたのに。

 結局、ハルカは追加でホタテの握りだけ頼んで食事を終えた。宗平は満足そうにお腹を抱えている。お会計をすると二人は店を出る。

「あまり食べていなかったけど、満腹になったのか?」宗平は心配そうに言う。

「うん、大丈夫だよ。でも、ちょっとだけラーメンが食べたいかも」ハルカは頭をかく。 

「そうか。じゃあ、そうしよう」二人は歩いて近くのラーメン屋に行く。

「実はね、言いづらいことなんだけど、人生で初めての高級なお店だったから、緊張して食事がのどを通らなかったんだ」ハルカは歩きながら打ち明ける。

「そうだったのか。次からはもっと安い店にしよう。気づかなくて申し訳ない」

「ううん。先生にご馳走してもらえたのは本当に嬉しかったんだ。ありがとう」

 店に入ると一杯ずつラーメンを注文する。温かい麺とスープが心身を満たしていく。

「おいしかった、ありがとう! やっぱりラーメンは美味しいね」

 店を出るとハルカが笑顔で言う。宗平も満足そうに答える。

「締めにラーメンを食べるのは最高だな。君のおかげでいい夕食になったよ」

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