第二章「先生と出会ったからなんだよ」⑤
「おじいちゃんとおばあちゃんは山梨にいたけれど、私たちは東京に住んでいたの。私の家はお父さんのせいで小さな頃から荒れていた。それで私はよく近所の公園で泣いていたの。誰にも見つからないように隠れてね。そんなとき、私にある女の子が声をかけたの。私はそのとき確かに泣いていたと思う。その子は私に「大丈夫?」と声をかけてくれた。私はその一言にとても救われた。それ以来、ひとりぼっちが寂しくて公園に行くと、その子はいつも一緒に遊んでくれたんだ。いつの間にか私はその子に憧れを抱くようになっていた。そしてその子のお父さんもいつも声をかけてくれたの。とても優しい笑顔でね。私はそれが嬉しかった。その子とお父さんの笑顔をよく覚えている。その子にはたくさんのお友達がいて、そのお父さんもいろんな子たちと話していたから、たぶん私のことはよく覚えていないと思う。それでもいいの。私はその子とお父さんに救われていた。そして、今でもその笑顔を思い出すと温かい気持ちになれる。その子の名前は遥楓っていうんだ。先生の娘のことなんだよ」
そこでハルカは宗平の目を見る。宗平はそこでひとすじの涙が頬に流れる。確かに子供の頃のハルカを覚えていない。でも自分の娘が誰かを救っていたことに心が震える。娘の人生は短いものだったけれど、決して無駄ではなかったのだ。娘の人生には確かに意味があったのだ。宗平は自分の心のどこかが救われていくのを感じる。
「ありがとう」気がつくと宗平は言葉をもらしている。ハルカは笑顔で言葉をつづける。
「私こそ、ありがとうなんだよ。だって先生は今の私も救ってくれたから。屋上で先生と再会したとき、私は死のうとしていたんだ。孤児だから施設に住んでいるけれど、そこに戻るつもりはなくて、死に場所を探して旅に出たところだったんだ。私が死のうとしたのは孤独がつらかったから。そして自分が生きていることを許されないと思っていたから。だから私は望遠鏡を持って、最期に天体観測をする旅に出た。そして景色がきれいな場所を探して、そこで死のうと思ったの。先生が住んでいるビルの屋上も候補だった。でも、あそこからの景色はきれいだけれど、すぐ下はいかにも都会の雑踏という感じで汚くて、それで候補から外しちゃった。私が死ぬのを思いとどまっているのはね、あの屋上で先生と出会ったからなんだよ」
そこで宗平は目を見開く。ハルカの言葉のつづきを待っている自分がいる。
「先生と再会したとき、先生は昔とずいぶん変わっていた。あの頃の笑顔はなくて、人生に投げやりになっているように見えた。でも、それでがっかりした訳じゃない。それでも先生はあの頃と同じでとても優しかったから。むしろ、私は嬉しかったんだ。今の先生と私は一緒かも知れない。私たちはある種の人生の苦しみを共有しているのかもしれない。今の先生を見て、私は人生に苦しみを抱いている自分の姿と重ね合わせたんだ。だから、私は思わず声をかけていたの。ごめんね、知らない女の子にいきなり声をかけられたら、誰でもびっくりしちゃうよね。でも、先生と再会して山梨まで旅に出て、一緒にたくさんお話をして、こうして天体観測をしているうちに、いつの間にか死にたいという気持ちが消えていたんだ。それは私にとって驚きだった。こんなに穏やかで楽しい気持ちになったのは、人生で初めてだったから。もしかしたら東京に帰って先生と別れたあと、死にたい気持ちがまた出てくるかも知れない。それが今の私にはすごく怖い。だから、ひとつだけお願いがあるの。もし私がまた死にたくなったときは、ううん、そうじゃなくても、また先生に会いに行ってもいいかな。先生と一緒にいるときは心から生きようと思えるんだ」
ハルカは目に涙を浮かべている。宗平はそんなハルカに優しく声をかける。
「言っているだろう。いつでも会いにきていいって。君のことを心から待っているよ」
「ありがとう、先生。これからは先生にたくさん会いにいくね」
ハルカの頬には涙が流れている。彼女は声を震わせて泣いている。そんな彼女を見て、宗平の目にも涙が浮かぶ。やがて彼女は手で涙を拭うと、すっきりした笑顔を見せる。
「ごめんね、たくさん泣いちゃった。じゃあ、そろそろ旅館に帰りますか」
「そうだね、今日はたくさん動いてたくさん泣いてきっと疲れただろう。旅館に戻ったらゆっくり休もう。そして明日になったら一緒に東京までのんびり帰ろう」
そうして二人はレンタカーに乗り込む。旅館に戻るまでハルカは助手席で眠っている。そんな彼女の静かな呼吸を感じながら、宗平はゆっくりと運転している。旅館に着くと、となりで眠っているハルカに「着いたよ」と声をかける。ハルカは眠そうな目を開けると覚束ない足取りで歩いていく。宗平はハルカが転ばないように注意を払う。部屋に入るとそこにはすでに布団が敷いてある。
ハルカはワンピースから浴衣に着替えることなく布団の上に崩れ落ちると、すぐに寝息を立てる。宗平は彼女が寝ていることを確認する。窓際の椅子に座って一冊の本を開く。荷物を準備しているときに見つけた夏目漱石の「我輩は猫である」だった。ハルカのことを考えて「名前はまだない」と宗平はつぶやく。そして夜は更けていく。




