第三章「これが本当の初恋なのかもしれない」①
九月四日の午前十時。宗平は屋上から景色を眺めている。ポケットに手を入れて、煙草はくわえていない。この日も白いワイシャツに黒いネクタイをしている。脳裏には妻や娘との思い出が浮かんでいる。そのとなりから黒いワンピースを着たハルカが声をかける。
「今日もここにいた。先生は何をしているの?」
「涼夏と遥楓のことを思い出していた。僕にもかつては家族がいたんだ。涼夏というのは僕の妻のことだよ。彼女たちは十年前に亡くなっている」
「そうなんだ」それだけを言ってハルカは前を見る。そこには東京の景色がある。
「君はどうしたんだ?」宗平がとなりのハルカに尋ねる。
「私は別にどうもしないよ。ただ先生に会いにきただけ。ダメだった?」
ハルカはそこで首を傾げる。大きな瞳を宗平に向けている。
「ダメという訳じゃない。ここにはいくらでも来ればいい。ただ他の用事がないのか気になっただけだ。君は大学生なんだろう? サークルやアルバイトで忙しくないのか」
ハルカは宗平から目をそらす。うつむきながら質問に答える。
「まあ、そうなんだけどね。今は夏休みだから暇をしているの。先生こそ毎日ここにいるけれど、天文学のお仕事はどうしたの?」
宗平はしばらく考えて、本当のことを打ち明けることにする。
「実はもう仕事をしていないんだ。妻と娘を十年前に亡くしてから失意の底にいた僕は、天文学者をやめてしまった。今は父親が遺したビルの家賃収入だけで生活している」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう。なんだかそんな気がしていたの」
「今度は君のことを教えてくれないか? 君の本当の名前は何というんだ」
宗平はハルカの横顔をまっすぐ見つめる。ハルカはうつむいたまま言葉をつづける。
「やっぱり気になるよね、本当の名前。でも、ごめんなさい。今はまだ言えない。決して先生に心を開いていない訳ではないの。むしろ私は先生がいてくれて嬉しい。でも事情があって今はどうしても言えないんだ。いつの日か先生に言えるときが来るまで待っていてほしいの。ごめんなさい、今はこんなことしか言えなくて」
「事情があるなら仕方がない。むしろ詮索するような真似をして悪かった。すまない」
「先生は謝らないで。私が悪いんだから。こんなどこの馬の骨とも分からない私だけど、これからも先生と会ってお話がしたい。いいかな?」ハルカは宗平のことを見上げる。
「僕は構わないよ。いつでも君のことを待っている。そんなことを気にする必要はない」
「ありがとう。もし良ければ、先生の家族のことを教えてよ。どんな人たちだったの?」
「分かった」そう言うと宗平の心は過去にさかのぼる。
思い出したのは涼夏と出会った日のことだった。それは忘れもしない。二十三歳の夏、八月一日のことだった。その日、宗平は人生で初めての恋に落ちた。宗平は当時、京都の大学院で天文学の研究に明け暮れていた。忙しい日々の中、お気に入りのカフェでひと息をつくのが習慣になっていた。そのカフェで働きはじめたのが、二十歳になったばかりの涼夏だった。その日が彼女の初出勤だったのだ。
宗平はそれまで恋をしたことがなかった。筋肉質で大柄な体格と寡黙な雰囲気が魅力に見えたのか、いろんな女性から声をかけられることはあった。その中には彼と付き合った女性もいた。でも、本当に彼女たちを好きだったのかは怪しい。むしろ、涼夏と出会って本当の恋を知ってからは、それまでの恋愛は偽物なんだと思った。
涼夏のことは一目惚れだった。それまでは自分が誰かのことを一目で好きになるなんてある訳がないと思っていた。合理的な彼は、恋愛感情なんて精神機能の破綻でしかないと考えていた。恋愛にうつつを抜かすのは愚か者のすることだと思っていた。
でも、その考えは涼夏と出会った瞬間に吹き飛んだ。彼には涼夏のまわりだけが輝いて見えた。気がつくと彼女から目が離せなくなっていた。そのときに悟った。これが本当の恋なのかもしれない。だとすれば人が恋に狂うのも無理はない。彼は胸の鼓動が高鳴っているのを感じた。落ち着きを失っていることを自覚した。手汗が止まらなくなり、いくら水を飲んでも口の中の渇きは癒されなかった。
宗平はカフェでいつものように夕食をとっていた。サンドイッチとコーヒーがいつものメニューだった。けれど、その夜は食事がのどを通らなかった。それまで理性的に生きることを信条としてきた彼は、生まれて初めて心が乱されるのを感じた。自分を見失うかのような不安を抱いた。彼はどうすればいいのか分からなくなった。冷静さを失った自分のことが怖くなり、彼はすぐに店を出てしまった。




