第三章「これが本当の初恋なのかもしれない」②
それからも宗平は毎日のようにカフェに通った。そして名札に長塚と書かれた女性店員がいないかを探した。彼女は平日の夜によく出勤していた。二、三日に一度は彼女のことを目にした。彼女は同僚たちから「りょうかちゃん」と呼ばれていた。それで彼女の名前を知った。彼はホールに涼夏しかいないときに勇気を出して声をかけた。
「すみません。お水をお願いします、りょうかさん」
涼夏はとびきりの笑顔で答えてくれた。「わかりました! 少々お待ちくださいね」
彼女が水を入れてくれるとき、宗平は再び声をかけた。
「ありがとうございます。りょうかさんって素敵な名前ですね」
その瞬間、彼は後悔した。自分のことを客観的に見て、なんて気持ちの悪いやつなんだと思った。すぐに顔を赤くした。赤くなっていることが自分でも分かった。
「ごめんなさい、こんな気持ち悪いことを言って。忘れてください」
そして慌てて席を立とうとした。そんな彼を両手で制して、涼夏は言った。
「気持ち悪くなんてないですよ。むしろありがとうございます。私の名前は涼しい夏って書いてりょうかと言います。お兄さんって大学の方ですよね。私もそうなんです。お昼によくベンチで本を読んでいるのをお見かけします。初出勤の日はお兄さんが席にいるのを見つけて、おかげで緊張がほぐれたんですよ。いつもお店に来ていただいて、ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね!」
宗平はそこで心がいっぱいになった。まさか涼夏さんが自分のことを以前から認識していたなんて。大学にいるときは研究のことばかりを考えて、まわりをよく見ていなかったけれど、実は涼夏さんとすれ違っていたんだ。
それからも宗平はカフェに通いつづけた。そのたびに涼夏は笑顔で声をかけてくれた。
「いつもありがとうございます! お兄さん。ゆっくりしてくださいね」
そして大学でも彼女に声をかけられるようになった。
「こんにちは! お兄さん」そう言って、彼女は手を振ってくれた。
そのたびに宗平は遠慮がちに手を振り返すのだった。涼夏は友達に言われた。
「あの人、誰?」彼女は嬉しそうに答えた。「バイト先のカフェのお客さんなの!」
ある日、ベンチで本を読んでいた宗平のとなりに涼夏が座った。突然のことだった。
「こんにちは、お兄さん。何を読んでいるの?」彼女は本をのぞき込む。
彼は内心では驚いていたが、平静を装うように気だるい声で言った。
「量子力学の不確定性原理について一般向けに書かれた本です」
「へえ、すごい。難しそうな本を読んでいるんですね。私は物理が全然ダメなの」
「数式はあまり使わずに説明した本だから分かりやすいですよ。涼夏さんも読んでみるといい。数式はあくまで物理を表記する方法に過ぎない。理解できると楽しいんです」
「そうなんだ、読んでみようかな。ねえ、ひとつお願いがあるんだけど、いいですか?」
「なんでしょう?」自分をのぞき込む涼夏からつい目をそらして宗平は言った。
「お兄さんの名前はなんて言うの? 私の名前だけ知っているのはずるいなと思って」
「そういうことなら。僕の名前は山本宗平と言います。そうは宗教の宗、へいは平らの平です。やまもとは普通の山本です。ここの大学院で天文学を研究しています」
本に目を落としながら宗平は言う。涼夏のことは眩しくて直視することができない。
「そうなんだ、素敵な名前ですね! 教えてくれてありがとう、宗平さん。読書の邪魔をしてすみませんでした。研究、頑張ってくださいね!」
明るくそう言って、涼夏は足早に去った。その足元は浮かれているように見えた。彼女の後ろ姿も輝いていた。宗平は胸の鼓動が高鳴っているのを感じた。涼夏に自分の名前を呼んでもらって、天に昇るような心地だった。
やがて九月二十日になり、宗平は二十四歳の誕生日を迎えた。彼はその日のこともよく覚えている。初めて涼夏をデートに誘ったのだ。彼はその夜、緊張した面持ちでカフェに向かった。涼夏は店員として働いていた。彼はサンドイッチとコーヒーを頼むと、店内にお客さんが少なくなるのを待った。閉店時刻が近づいて、店内に彼だけが残ると、勇気を出して声をかけた。ホールには彼女しかいなかった。彼の声は緊張のあまり震えていた。
「あの、このあとお時間はありませんか? 大切なお話があります」
涼夏は突然のことに驚いていたが、すぐに満面の笑顔を見せた。
「時間はもちろんありますよ! すぐに準備するのでお店の前で待っていてください」
Tシャツにジーンズというシンプルな服装の涼夏は、それでも宗平には輝いていた。
「お待たせしました。大切なお話ってなんですか?」涼夏は大きな瞳で見つめた。
宗平は挫けそうになりながらも、なんとか勇気を奮い起こした。
「僕と、デートをしてくれませんか? よろしくお願いします」宗平は頭を下げた。
しばらく沈黙が流れたあとで、涼夏は言った。「頭を上げてください」
宗平が頭を上げると、そこには嬉しそうな笑顔の涼夏がいた。
「もちろんです! こんな私ですが、よろしくお願いします」
涼夏は手を差し出した。宗平はその手をおそるおそる握った。彼女の白い手は小さくて冷たかったけれど、そこには心を落ち着かせるような親密さがあった。宗平は思わず笑顔になった。心に喜びがあふれた。同時に、本当の勝負はここからだと気を引き締めた。
「ありがとうございます! きっと最高のデートにしてみせます」
「そんなに気負わないでください。とても楽しみにしています」
涼夏は優しそうな笑顔で言った。宗平は絶対にデートを成功させようと心に誓った。




