第三章「これが本当の初恋なのかもしれない」③
二人の初デートは三週間後の日曜日、場所は嵐山だった。待ち合わせ場所は大学の正門にした。宗平は精一杯のオシャレのつもりで、真っ白な新しいTシャツの上にブラウンのジャケットを羽織り、ベージュのチノパンツを履いていた。彼はあまりの緊張で吐き気を感じていた。自分が好きになった人をエスコートするのは初めてのことだった。
集合時刻の五分前に涼夏はやってきた。彼女は白いブラウスにベージュのカーディガンを羽織って、チェック柄のブラウンのロングスカートを履いていた。肩までの長い黒髪はゆるくカールさせていた。宗平の姿を見かけると、涼夏は手を振りながら小走りでやって来た。頬を赤くした満面の笑顔を浮かべていた。その笑顔を見ると、宗平は緊張が上書きされるほどの喜びを感じた。今日は涼夏さんと一緒にいられる。そのことが何よりも幸せに思えた。涼夏は彼の緊張をほぐすように言った。
「お待たせ! 肩の力を抜いて、今日は二人で一緒に楽しみましょうね」
「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
二人は大学からバスと電車を乗り継いで嵐山に向かった。道中の会話を盛り上げられるのか宗平は心配していたけれど、涼夏との会話は意外と弾んだ。宗平が話題を出すだけではなく、会話が止まったときには涼夏がたわいもない話をしてくれたのだ。
宗平は気がつくと涼夏との会話を楽しんでいた。本当は自分が楽しませないといけないのに、むしろ自分の方が楽しませてもらっているような感覚になった。それでいいのかと不安に駆られることもあったけれど、涼夏の心から楽しそうな笑顔を見ると、自分の不安はどうでもいいと思えた。涼夏は自分自身についていろんなことを教えてくれた。
涼夏は医学部に通っていた。精神科医になるのが夢だと語った。二歳下の妹が高校受験の失敗や恋愛のトラブルで情緒不安定になったとき、親身に対応してくれた精神科の先生に憧れたという。彼女は医療のことを熱心に語りながら、目を輝かせていた。
「私も、誰かの心に寄り添える精神科医になりたいんです」
涼夏はいつもより真面目な表情でそう言った。好奇心だけで動いてきた自分と違って、誰かを助けたいという明確な夢を持った彼女に、宗平はよりいっそう憧れを感じた。
涼夏は将来の夢だけでなく、趣味のことも話してくれた。彼女はテニスが好きだった。中学生の頃には全国大会に進んだほどの実力者だという。大学に入ってからも医学の勉強やアルバイトに励む一方で、テニスサークルに所属していた。彼女は運動もよくできた。
「実は、私ってこう見えて腹筋が割れているんですよ」
涼夏はそう言って、ブラウスの上から腹筋を触らせてくれた。
宗平はドキドキしていたが、涼夏の腹筋を触ってみると予想外の硬さに目を丸くした。思わず「おお」と声を上げたくらいだった。「すごいでしょ」と彼女が言ったので、彼は素直に「はい、すごいです」と感心してしまった。
「でも、宗平さんもしっかりとした体つきですよね。何か運動をしていたんですか?」
「僕は子供の頃から水泳をしていました。今でも週に一回はプールで泳ぎます。いつもは研究で頭を使ってばかりなので、無心で体を動かすことはいい気分転換になるんです」
会話の中で、二人には共通の趣味があることも知った。それは哲学だった。宗平は宇宙と並んで昔から哲学が好きだった。いろんな哲学者の思想を知ることで、自分自身の狭い価値観が解放されるような感覚があった。彼はその感覚に酔いしれた。涼夏は言った。
「すごく分かります。まさしくコペルニクス的転回というか、ものの見方が大きく変わるようなあの感覚が、私もすごく好きなんです。宗平さんは哲学の中で何が好きですか?」
「僕はそれこそカントのコペルニクス的転回が好きです。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う。彼が理性の限界を示してくれたことで、僕はその範囲内でのびのびとものを考えることができるんです。十代の頃は、果たして科学に意味があるのだろうかと迷うこともありましたが、彼のおかげでその迷いをなくすことができました」
「現象と物自体を区別して、人が認識できるのはあくまで現象であり、本当の世界を見ることはできないとする考え方ですよね。私は以前にカントの純粋理性批判を読もうとしたことがあるんですが、難しすぎてすぐに挫折してしまいました」涼夏は頭をかいた。
「僕も、挫折を繰り返しています。最近になってようやく読み通すことができました」
「すごっ! やっぱり宗平さんは頭がいいんですね。以前から尊敬しているんですよ」
「何をおっしゃっているんですか。涼夏さんこそ医学部じゃないですか。私の拙い頭では到底、入ることができませんよ。私は文系科目がどうにもダメなんです」
「私は昔から要領がいいだけで、本当の意味で頭がいい訳ではないんです。だから私には研究で新しい事実を発見するなんて出来ないと思います」涼夏は手を振った。
「そんなことはないです。研究は知的好奇心があれば誰でも出来ます。だから涼夏さんも大丈夫ですよ。ところで、涼夏さんはどんな哲学が好きなんですか?」
「私が好きなのはサルトルの実存主義です。実存は本質に先立つ。人は気がついたら存在している。よって本質をあとから自分自身で作らなければならない。言い換えると人生の意味は自分自身で作り上げていくということですよね。私はその言葉に勇気をもらえるんです。私がいつの間にか身につけていた、悲観的な運命論から解放してくれるんです」




