第一章「これから宇宙を見に行こうよ」③
「どこに行くの?」宗平が尋ねる。
「それは内緒。着いてからのお楽しみだよ」ハルカは満面の笑顔で言う。
二人は屋上を出て、宗平の自宅があるひとつ下の階に移動する。
「望遠鏡は僕が良いものを持っているから、今回はそれを持って行こう」
「そうなんだ。じゃあ、おじさんのをお借りするね。私が持っている望遠鏡はなけなしのお金で買った小さいやつだから。おじさんの良い望遠鏡で宇宙を見るの楽しみだな」
「準備をするからここで待っていてくれるか?」宗平が尋ねると、ハルカは考え込む。
「うーん。ねえ、おじさんの家で待っていてもいいかな? 廊下で待っているのは暑いし疲れちゃうと思うから。あと、おじさんのことは先生って呼んでもいい?」
ハルカは伏し目がちになる。それが許されることなのかを気にするように。
「呼び方は好きにすればいい。でも、初めて会ったばかりのおじさんの家に入り込んでも良いのか? 怖いとは思わないのか?」
「やった、じゃあ先生って呼ぶね。私だっていつもならよく知らないおじさんの家に行くなんて嫌だよ。でも、なんとなくだけど先生には安心することができるんだ。先生は悪い人じゃないでしょう?」
ハルカは首を傾げる。その表情は笑顔になっている。
「どうだろう? 悪い人じゃないと良いけれど、僕は自分のことをあまり信用していないからね。もちろん君にひどいことをするつもりは毛頭ないよ」
「だったら大丈夫だよ。先生が準備している間、ちょっとだけお家でゆっくりさせて」
「君は一旦自宅に戻らなくても良いのか? 君だって準備があるだろう」
「必要なものはリュックの中に入っているよ。だから大丈夫。もし足りなければどこかで適当に買うよ。荷物になるから私の望遠鏡はここに置いて行ってもいい?」
そう言うとハルカはリュックの中から望遠鏡を取り出す。片手で持てるサイズの小さな望遠鏡だった。宗平はその予想外のサイズに驚いてしまう。
「こんな小さな望遠鏡で本当に宇宙なんて見えるのか?」
「そこまで綺麗に見える訳ではないけれど、私はお金があまりないからね。ちゃんとした望遠鏡は買えないんだ。本当は大きな望遠鏡で宇宙を見たいんだけどね」
ハルカは寂しそうな表情を見せる。宗平は宇宙の美しさを知ってほしいと思う。
「そうか。僕の望遠鏡でよければいつでも使わせてあげるから」
「本当? ありがとう! 今度から天体観測をする時は先生に声をかけるね」
二人は宗平の自宅に入る。ハルカは足の踏み場がない廊下を爪先立ちで移動して、居間のソファに座る。部屋中にさまざまな書籍や脱いだ後の衣服や捨てられていないゴミ袋が乱雑に散らばっている。彼女はそんな部屋の中を隅々まで興味深そうに眺めている。
「すごいね、先生の部屋。さすが研究者っていう感じだね」
「褒めていないだろ。整理整頓が苦手でどうしてもすぐにこうなってしまうんだ」
「先生が準備をしている間、私が片付けてもいいかな? 部屋の中がちょっと息苦しくて落ち着かないんだ。せめてゴミは捨ててしまいたい。散らばっている服も整理したいし」
「そうか、それは助かる。よろしく頼むよ。本や書類は捨てずに集めておいてくれ」
自分のことはどうでもよかった。だから、初対面の少女に部屋の片付けを任せることもできてしまう。そうして宗平が出かける準備をしている間、ハルカは部屋の片付けと掃除をすることになる。途中で一枚の写真を見つける。そこには宗平が妻や娘と一緒に写っている。現在の険しそうな表情とは対照的な優しい笑顔だった。この部屋に住んでいる宗平は明らかに一人暮らしであり、家族の面影はまったくない。それでもハルカはその写真を何も言わずにそっと本棚のところに置く。まるで何も気がつかなかったかのように。
「遅くなってすまない。準備ができたよ」宗平がハルカに呼びかける。
宗平は望遠鏡が入るサイズの大きなショルダーバッグを肩にかけている。いつの間にか部屋の中はきれいに片付いている。捨てられていないゴミ袋や脱いだ後の衣服はひとつもない。たくさんの書籍は本棚のそばに整理整頓されている。何より足の踏み場があることに驚いてしまう。部屋の床を久しぶりにちゃんと見た気がする。ハルカはソファに座っている。その手元には宗平が一般向けに執筆した宇宙についての入門書がある。
「ごめんなさい。先生の名前が書いてある本を見つけてつい手に取ったの。宇宙について興味があるからどうしても読みたくなってしまって」
「そんなものはいくらでも読んでくれて構わないよ。十年以上前に書いた本だから内容はちょっと古いけれど。ここにある本はいつでも読みに来ればいい」
「やった! 面白そうな本がたくさんあるからとっても嬉しいよ。先生が書いたこの本、ちょっと借りてもいい? ちゃんと始めから終わりまで読んでみたいんだ」
「せっかくだからその本は差し上げるよ。僕の手元にあっても仕方ないからね。じっくり読んでみるといい。質問があれば答えるよ」
宗平はハルカを前にしてかつての学者としての血が騒いでいるのを感じる。まったく、今さらそんなことになっても仕方ないのにと思わず自分に呆れてしまう。
「ありがとう。大切に読むね」
ハルカは宗平が書いた本を丁寧な手つきでリュックに入れるとソファから立ち上がる。ハルカの荷物は大きなリュック。宗平の荷物は小さなリュックと大きなショルダーバッグがひとつずつ。二人は部屋から出ると、歩いて新宿駅に行く。
こうして旅は始まりを告げる。
二人は新宿駅に着くと、そこで甲府行きの特急電車の切符を買う。意外と遠くまで行くんだな。宗平はひそかにそう思いながらも、ハルカのあとに黙ってついて行く。せっかくだから彼女が行きたいところまで一緒に行こう。
新宿駅の改札口を通ったところでハルカが尋ねる。
「先生って車の運転はできるの? 山奥に行くから車があると便利なんだけど」
「運転免許証は持っている。最近は車に乗っていないけれど、運転をすることは問題ないと思う。甲府のレンタカーを借りておこうか?」
おじさんと二人で山奥に行くのは問題ないのか? そんな疑問が浮かんだけれど、先生は悪い人じゃないから大丈夫って言われるのだろうと予想がつく。
ハルカはそこで申し訳なさそうに頭を下げる。
「ありがとう。もうひとつお願いがあるんだけど、旅館を予約してくれると嬉しい。明日の予定もまだ聞いていないのに、泊まりに行こうとしてごめんね。でも山梨で天体観測をしようと思えば、どうしても泊まりになってしまうから。先生はそれでも大丈夫?」
「問題ないよ。明日はまったく予定がないからね」
明日だけでなく宗平にはこの先の予定なんてない。でもそれは心の奥にとどめておく。
「ごめんね。私って後先を考えずに行動してしまうところがあるから。先生に予定がないのなら良かった。それと旅館の予約をするときは、私たち二人を親子っていうことにしてくれないかな? 事情を説明するのが大変だから」
「でも、それだと二人で同じ部屋に泊まることになってしまう。それでも良いのか?」
「大丈夫だよ。だって先生は私が傷つくことをするような人ではないでしょう?」
宗平は二人が別々の部屋に泊まることを怪しまれるリスクと天秤にかけて、その提案を受け入れることにした。二人は特急電車に乗る。景色を見たいから窓側がいいとハルカが言うので、宗平は通路側の席に腰を下ろす。ハルカは宗平が書いた本を手にしている。




