第一章「これから宇宙を見に行こうよ」②
黒いワンピースを着た少女は宗平と目が合うと、一瞬だけ目を丸くする。しかしすぐに表情を戻すと、彼にそっと微笑みかける。その凛とした姿勢と儚げな笑顔に、宗平は心を揺さぶられる。まるで最愛の娘が成長して生き返ったかのようだ。
今まで心を捨てたように生きてきた宗平は、少女の姿から目眩のような衝撃を受ける。その衝撃は築き上げてきた心の鎧を壊すかのように痛みをもたらす。彼は深呼吸をすると煙草を口にくわえる。次第に冷静さを取り戻す。不意に乱された心を鎮めていく。
そこで少女は宗平に話しかける。彼女の声はなぜか少しだけ震えている。
「おじさんは誰? ここで何をしているの?」
「僕は天文学者だ。外の空気を吸うために屋上に来ている」
本当はすでに天文学者をやめて、今は仕事をしていない。しかし娘によく似た雰囲気の少女を前にして、正直なことは言えなかった。十年前に家族を失ってから、宗平は絶望と無感覚の中で生きてきた。娘はこの少女とよく似た儚げな雰囲気を持っていた。黒いワンピースがお気に入りで亡くなった日にも着ていた。だからこそ彼にはこの少女が自分の娘と重なって見えたのだ。
「おじさんの名前は?」少女が言う。
「……僕のことはどうでもいいんだよ。何もなくこのまま死んでいくだけなんだから」
煙草を口にくわえて宗平は言う。冷静に考えると娘は十年前にもう死んでいる。彼女が生き返って目の前に現れる確率はゼロパーセントだ。この少女は自分の娘に雰囲気がよく似ているだけの見知らぬ少女なのだ。深入りする必要はない。だから煙草を吸ってあえてこの少女と距離を置こうとする。しかし少女は儚げな笑顔で言う。
「ねえ、私たちってたぶん似ているね。私だって思うもん。自分のことはどうでもいい。何もなくこのまま死んでいくだけだって。でも、だからこそ私はおじさんのことがすごく気になるの。ねえ、おじさんの名前はなんて言うの?」
そう言った少女の笑顔が宗平にはとても眩しく見える。思わず少女から目を背ける。心が激しくかき乱されるような感覚になる。それが彼を不安定な気持ちにさせる。この少女は自分を惑わせる危険な存在だと思う。それでも少女の元から立ち去ることはできない。彼は再び少女に目を向ける。太陽のような眩しさを放つ少女を前にして目を細める。灼熱の光が自分の心を焼こうとするのをじっと耐える。
そして宗平は少女の問いに答える。
「僕の名前は山本宗平だ。君の方こそ名前は何と言うんだ?」
宗平はその問いを口にしてすぐに後悔する。そんなことを彼女に訊くべきではなかったのだ。少女は無言で唇を噛んでいる。この問いに答えるべきか悩んでいるのだろうと彼はすぐに想像する。出会ったばかりのよく知らない男に対して、若い女の子が素性を言えるはずがないのだ。やっぱり答えなくていいと言おうとしたところで、少女はおもむろに口を開く。その名前を聞いて、宗平は頭が真っ白になるのを感じる。
「私の名前はハルカっていうの。おじさんとは出会ったばっかりだから苗字は秘密。こう見えて普段はハタチの女子大生をしているんだ」
そこで宗平の脳裏に娘の姿が浮かぶ。本当は家族のことを思い出したくなかった。思い出すとつらくなるからだ。けれど思い出さない訳にはいかなかった。脳裏にかつての娘の明るい笑顔がよみがえる。同時に思い出してしまう。最愛の家族が血まみれで倒れている光景を。その光景は彼に吐き気をもたらす。
気分が悪くなった彼は口を手で抑えてその場に座り込んでしまう。よりにもよってこの少女の名前が自分の娘とまったく同じだなんて。娘が生きていれば年齢もちょうど二十歳になっていたはずだ。すべてが娘とそっくりなこの少女はいったい何者なのだ。
目眩が始まった宗平の元にハルカが慌てて駆け寄る。
「大丈夫、おじさん? 急に気分が悪くなったの? 救急車を呼ぼうか? 私のカバンの中にお水があるからそれを飲む?」
そこでハルカは不意に動きを止める。その場に立ち上がると悲しそうな表情になる。
「ごめんなさい。きっと私なんかに出会ったせいで気分が悪くなったんだよね。私なんかきっといない方がみんなのためになるもんね。私はすぐにいなくなるから安心して」
そう言ってハルカはビルの屋上から立ち去ろうとする。そんな彼女に宗平は思わず声をかける。彼女がまるでこの世界から消え去ろうとしているような予感がしたのだ。それはたぶん気のせいだと思う。考えすぎなのは分かっている。
それでも彼女のことを放っておけなかった。少女はたまたま自分と出会っただけで一切の罪はない。ただ自分自身がトラウマを思い出しただけなのだ。
「待ってくれ。君は何も悪くない。昔のつらい記憶を思い出しただけだ。このまま安静にしていればすぐに治る。すまないが君の持っている水をくれ。あとベンチで少しだけ横になりたいと思う」
ビルの屋上の隅には赤色の古いベンチがある。ハルカはベンチに置いていたリュックの中から水を取り出す。新品のペットボトルの蓋を開けて宗平に手渡す。
それから宗平が覚束ない足取りでベンチに向かうのを心配そうに見つめる。
「ゆっくりしてね。私に何かできることはある?」
「ありがとう。何かあった時のために少しだけここにいてくれないか?」
「分かった。しばらくおじさんのそばにいる。何かあったらいつでも言ってね」
しばらく横になってゆっくりと深呼吸をする。最初のうちは予期せぬフラッシュバックに苦しんでいたけれど、やがてその光景は脳裏から次第に薄れていき、感じていた目眩や吐き気は治まってくる。宗平はベンチから起き上がるとハルカに頭を下げる。
「ありがとう。横になっているうちに回復してきたよ。君のおかげで助かった」
「元気になったのなら良かった。おじさんはこれからどうするの?」
ハルカは大きな瞳で宗平の顔をのぞき込んでいる。
「このビルの中に自宅があるから、今日はこのままゆっくりするよ。君はどうするんだ? そもそも、君はここで何をしていたんだろう?」
「ちょっと街の景色が見たくなったんだ。このビルの中にクリニックがあるでしょう? そこが私のかかりつけなの。それでここにはよく来るんだ。ここは屋上の鍵が開いていることが多いから、こうして景色を見に来ることもあるんだよ」
「なるほど、そういうことか。実はこのビルのオーナーは僕なんだ。屋上から出るときにうっかりしていて鍵を閉め忘れることがよくあるんだよ。これからは気をつけないと」
「そうなんだ。ごめんね、勝手に入り込んでしまって」ハルカはうつむいてしまう。
「別に構わないよ。屋上に行きたいときはいつでも声をかけるといい」
「ありがとう。ねえ、おじさんにお願いがあるんだけどいいかな?」
ハルカは宗平の表情をうかがうように見上げる。その手は後ろに組んでいる。
「いいよ。僕が叶えられることであれば」
「おじさんって天文学者なんだよね。実は私、天体観測が好きなんだ。だからよく望遠鏡を持って天体観測に行くの。ねえ、もしおじさんに時間があるなら、これから私と一緒に宇宙を見に行こうよ」
宗平は気がつくと静かにうなずいていた。今にも消え入りそうな儚い雰囲気を持った、娘によく似たこの少女のことがひどく気になっていた。彼はこの少女のことをもはや無視できなくなっていた。だから天体観測の誘いを断ることができなかった。知り合ってすぐの若い女の子と出かけることが倫理的に正しいのかどうかは分からない。それでも彼女と天体観測に行くことにどうしようもなく心を惹かれていた。




